北欧生活研究所

2005年より北欧在住。北欧の生活・子育て・人間関係,デザイン諸々について考えています.

コラボレーションの歴史

f:id:jensens:20160625051318j:imageいろんな知見を持った人が集まり一緒になって課題解決に取り組むということ(利害関係者間の協調作業/コラボレーション)が、非常に得意な北欧の人たち。利害が必ずしも完全に一致しない場合でも、議論をしつつ解決策を見つけていく。毎日の生活の中でそんな姿に感嘆させられることも多いが、このようなコラボの方策は、一朝一夕に出来上がったものではない。

2015年NRK(ノルウェーテレビ局)製作のKampen om tungtvannet (重水の闘い)は、ノルウェーテレビ局のテレビドラマ作品だ。第二次世界大戦中、イギリス軍とノルウェー人(イギリス軍に合流)が協力し、ノルウェーテレマーク地方にあったヒュドロ重水工場の破壊工作を進めた一連の作戦をドラマ化したもの。

すでにナチスドイツの占領下にあったノルウェーにおいて、核兵器の開発に利用できる重水を作り出していた工場を、ノルウェー人部隊が乗り込んで破壊し、ドイツの原子爆弾開発計画を阻止するというプロット。これは実話で、破壊工作作戦に関わっていた人たちのなかには、まだ生きている人もいる。物語は、戦略を指揮していたノルウェー人大学教授ライフさん(Leif Tronstad)の視点で語られるが、彼ばかりでなく多数のノルウェー人が対ナチスに加わるためにイギリスに向かい、イギリス軍と作戦を共に実施していく。

物語に夢中になって見落としがちなるが、ここには北欧の人たちの小国としての生き様というか、小国に生まれたものとして獲得してきたのであろうスキルがいかんなく発揮される良い例のように思える。

一部のエリートだったのかもしれないけれども作戦に参加しているノルウェー人たちは複数言語を操る。そして、軍隊や占領下においての異文化への対応も小国ならではだろうか。

破壊工作プロジェクトでは、当然のように英語を共通語として戦略が練られる。ノルウェー人出奔者は、英語で議論し、さも普通のことのように、異なる文化やプロセスや価値観で動いているだろう他国の軍隊と一緒に戦略を練るのだ。

同様にナチスドイツの支配下に置かれていた工場は、ドイツ軍の配下で重水製造を続けるが、マネージャーのノルウェー人は、ドイツ語を話し、(心情は別として)工場と雇用者のサバイバルのためにドイツの論理に従い、協調していく。

他国と協調していくことがデフォルトで求められていた欧州地域。一方で、イギリス軍に下るのではなく、またノルウェー国内に地下組織を作るのではなく、イギリス軍の力を借りて、祖国の知見を生かし、作戦を展開していく。ノルウェー人でないと考えられなかった作戦をひねり出し、主導権を握ったのは、ノルウェー人たちだ。 

ノルスク・ハイドロ重水工場破壊工作 - Wikipedia

youtu.be

 写真はもちろん関係ないんだけれども、デンマークで偶然出会ったノルウェー独立記念パレード

 

 

タンポポと日本人

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タンポポが咲き始めると春が近づいてきたと日本では思うかもしれない。梅の花や桜なんかもそうだろうか。以前とある記事で「桜の花に郷愁を感じられない自分」「自分は鮮やかな花の方が好きだ」という海外育ちの日本人の話を読んだことがある。ある特定のものを見て一定の感情が喚起される感覚は、文化独特と捉えられるが、確かに文化・社会によって醸成されるものなんだろう。

タンポポデンマークでは雑草だ。「野に咲く雑草」というレベルではなく「排除されるべき憎き対象」になっているんではないかと思っている。いわゆるゴキレベル。以前、温和な義理父が庭に生えてきていたタンポポを「こんなところにも!」と言い足で踏み潰しグリグリしていたのを見て、一瞬背筋が寒くなった。確かに青々として美しい芝生づくりには天敵なんだろうが、雑草とはいえ愛らしい存在であるタンポポが受けているあまりの対応に悲しみを感じざるを得なかった。

2年ほどまえだろうか、同じことを当時5歳の娘が、足でグリグリとやりながら、「お母さん、これよくない花なんだよ」と私ににこやかに言ってきたので、思わず反論してしまった。「そんな風にタンポポ踏んだらかわいそうじゃない?お母さんは好きよ。かわいいと思う。日本では、みんなが好きな雑草なのよ」。その後、娘が「タンポポかわいいよね。日本ではタンポポみんなが好きなのよ」と友人に言っているのを聞いて、嬉しい反面、感覚の押し付けをしてしまったのかと複雑な思いになった。

週末の日本人補修学校で使われている文部省検定済みの二年生の教科書には、タンポポの話が載っていて、タンポポがいかに花をさかせ、エネルギーを蓄積し、綿毛を飛ばすがか、細かく記載されている。愛らしい対象として描かれているタンポポの記載を見て、あぁ、これが文化的な刷り込みなんだなと思ったりしていた。

荻上チキ(最近目が疲れるのでよくラジオを聞く。複数のポットキャスト中でもオタクっぷりが秀逸だ)さんラジオのゲストで藤村シシンさんという方がいうには、古代ギリシャの神殿はカラフルだったと。藤村さん曰く、今の私たちは過渡期にいる。我々のイメージに埋め込まれている白い神殿→本来の姿であるカラフルな神殿への移行に迫られているけれども、今後の子供達は本物のカラフルな神殿を本物であるとして脳にインプットされていくので、違和感なく「カラフルなギリシャ神殿」を受け入れていくのだろう。

www.tbsradio.jp

タンポポが可愛いという感覚を私の子供達の脳内に焼き付けたい、と思うと同時に、複雑な気持ちにもなる今日この頃。

発生から約250日後にようやく手術

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デンマークも先端国家の一つで、医療技術や措置に至っては安心できる、んだろうとおもう。この見上げている天井が半分壊れているとか、建物が吹きっさらしの草原に建てられ、外の風が感じられるテントだとか、そんな状況での手術でないことにただひたすら、感謝したい。麻酔室に案内された私はベッドに横たわって、そんなことを考えていた。

少し髭の生えたがっしり筋肉体型の男性が麻酔科医だと言って、挨拶に来た。その医師に手を取られ、運ばれた先でベットに横になり、天井を見つめる。麻酔科医は、緊張を解こうとしてくれているのだろう。私の手の甲をパチパチ叩きながら、「僕は、人を正当な理由で叩けるんだぞ。これが仕事だからね。」と、(おそらく)術前ジョーク、そして右手の甲に麻酔薬の注入のための針が刺される。カズエちゃんだったら、なんて返すのかななんて思いながら、黙っていた。

手術の執刀医、その他担当医師が、挨拶に代わる代わる顔を覗き込みに来る。私の目を見るためもあるんだろうけれど、あまりにも近くに顔を寄せる。顔のシワを見ながら、この方は58歳ぐらいかな…、この人は60は入ってそうだ、なんて考えていたら、挨拶終了。どの方も女性で4人もいる。しかもかなり年配だ。

初めてというわけではないけれど、全身麻酔は、非常に興味深い。体が少しずつ包まれていき暖かくなって行く感覚で、麻酔が入ってくるのがわかる。ぼーっとしてきたな、と考えた次の瞬間のことは覚えていない。

どうやら手術は成功だったらしい。失明の危険性があるとか、レンズの挿入失敗の危険性があるとか事前の説明では、もちろんリスクをとことんいわれるわけだけれども、とりあえず、本日はこれにて終了。

目が覚めたときには、すでに旦那が脇にいて、その後、すぐに休憩室に連れて行かれた。飲み物・食事、好きな物をとっていいよと言われて、旦那が適当に見繕って、サンドイッチとヨーグルト、紅茶を持ってきてくれた。

手術を受けている時の記憶はない。気がついたら片目のレンズが変えられて、それすらも認識できず、こうしてまたこの日常にもどっている。現代医学はすごい。

New Nordic Foodと蘭子と蝶と闘争

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デンマークのフード周りは、最近賑やかになっている。星を取るレストランも増え、海外から注目もされるレストランなんかも増えてきた。日本の「ユズ」や、「旨味」と言った言葉が聞かれるようになったのも最近だ(デンマークの食事情)。そんな新しいデンマークのレストランでは、 旧来のどてっとした大味料理から、New Nordic Foodに代表される新しい北欧料理運動に影響され、地元食材を活用し、素材の味を生かす方向に変わってきている。日本の懐石に影響を受けるシェフも多く、シンプルかつ大胆な作風は、日本人も楽しめるところが多いのではないかと思っている。値段もピンキリ、作風も多様性に富んでいるので、お気に入りが見つけられるはず。ニューノルディックフード、ゼラニウム再びやその他新北欧料理、未体験の方は是非。

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最近縁あって、旧友、風見鶏蘭子ちゃんと再会した。世界を這いずり…、いや駆けずり回る彼女なので、日本で会えると思わなかったが、偶然タイミングが合い再開と相成った。なんの予定も行きたい場所も言わずにただ「会おう」と言った私に、スケジュールを組み、旧洋館を使ったフレンチを予約してくれた彼女にすっかり惚れ直してしまった。
 

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このレストラン、星を取っているレストランだそうで、趣も接客も、もちろん食事も最高だった。フレンチでも重すぎることなく、前菜に、メイン、。デザートまで、どれも素晴らしい。だが、なんといっても素晴らしかったのは、我が友、蘭子だった。
 
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デザートが出された時、「最後の一品は、5感を使って楽しんでもらえるように作られています」といって、にこやかに出された品は、音楽や音符を形取り蝶の舞う景色が描かれていた。蝶や花のあいだには、口で弾けるキャンディが散りばめられていて、ソルベと小さなケーキやクッキーやチョコレートが配置されている。確かに、冷たいものと温かいもの、カラフルな色使い、口でパチパチはじける音。5感を使っているといえばそうとも言えよう。
「…蝶が舞う姿を描いて…」と、説明された時に、蘭子は、「あぁ、パピヨンに変わったのは、そういう訳だったのですね」指を上に刺し、にこやかに給仕の女性に笑顔を向けてのたまったのだ。
 
その時にバックグラウンドに流れていたのは、「パピヨン」(だったらしい)。聞いてもわからない私。
 
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解説する人がいないがために、存在にも気づかずに通り過ぎてしまっていることは、どれぐらいあるのだろう。「面白くなかった」「単調だった」「新鮮味がなかった」…。最近のデンマークNew Nordic Foodは、皆似通ってしまい、あまり楽しめなくなってきた、と考えていたのだけれど、そんな感想を言う前に、自分の能力や知識が追いついてないかもしれない可能性について、考えてみる必要があるのかもしれない。サービス提供側と客である自分の間の闘争は、自分が見え(て)ないところで幕が開き試され、もしかしたら客側では始まらずに終了しているのかもしれない。
 
 

デンマークの学校では親が教師になる日がある

f:id:jensens:20160422045658j:image"Parents Teacher Day!!"なるもののメッセージが父兄SNSに小学校1年生の娘の担任から送られてきたのは、1ヶ月ほど前だっただろうか。

木曜日から来週の月曜日まで、教師研修旅行でイタリアのフィレンツェに行くそうで、木曜日は、「保護者が先生になれる日!」いぇい…。「私たち教師はいないので、親たちで企画構成してお願いねっ」

オンラインでは、メールが飛び交う。数人の親が率先して、"じゃあ、私は音楽を教えましょう、私はサイエンス、私は体育を"...となるところが、デンマークらしい。そこで、何も言わずに沈黙を守る親がいるところも、これまたデンマークらしい。

デンマークの学校は、常時こんな風で、日本的感覚では、ゆる〜い学校教育であるのだけれど、それでも、一応動いて、子供は育つ。そんな学校の国は、一人当たりのGDPは日本よりもはるかに高く、幸せと感じる国民を創り出している。

同時にデンマーク的感覚を100%備えているわけではない私は、折々に触れ見聞きし、親としての(デンマークの)常識、義務への対処を迫られることに、大きなストレスを感じざるを得ない。同時に、デンマーク学校のユルさから感じる娘の教育への一抹の不安と、対照的なデンマーク教師のプロフェッショナリズム対応に目眩がしてくるわけだ。ある意味、他の親の対応からは、(1週間、研修旅行で、親にしわ寄せが来ても)社会的には認められる行為であることがわかる。「ミッドナイトセッション」チキさんのゲストにきていた哲学者の國分さんというかたが、イギリスの学校について報告していたが、形はどうあれ、教育ってその国の生き方に対する常識的価値観が如実に表れるようだ。

そして来週の月曜日は(まだ先生イタリアだから)休校。今からエネルギー蓄えておかないと。

 

 

 

lost in translation

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海外で生活していると、時折、社会文化背景の違いや認識の違い、価値観の相違によって、深〜い勘違いをすることがある。このlost in translationは、11年目を迎えた現在でも、その存在を忘れた頃にやってきて私を脅かしてくれる。時には、取り返しのつかない勘違いとなり、クオリティオブライフを大いに損ねることもあることを、改めて感じるのだ。
 
あれから半年が経過し(デンマーク医療にまたしてもやられた...ている参照)、先日ようやく左目の再検査までこぎつけた。執刀グループによる検査だということで、意気揚々と行ったら、以前と全く同じ検査じゃないか。1時間待たされ受けた検査の後、手術日が提示された。その日は、半年以上かけて準備していた日本の大学とのワークショップのために日本出張に行くその当日。「その日はダメ…、どうしてもダメなの。私の半年と、今後のプロジェクトを左右する日。」半年待たされて、唯一避けたい日程に手術日が当てられるとは。
 
他の選択肢はないのかと問う私に、明らかに驚愕し憮然とする医師。「あなたが急ぎたいというから、急いで見つけて入れた最上のスポットなのに。」次の可能性はいつなのかと問う私に、半年かもしれないし、1年後かもしれない。確約はできない。と、なんとも歯切れの悪い回答。「とりあえず、他の日をチェックしてまた月曜日にでも連絡するわ。私、もう今日は業務終了だから」と、帰宅準備する医師。
 
トボトボ部屋を出て、迎えに来てくれたデンマーク人旦那に「決まりそうで決まらなかった」と、経緯を説明するや、「なんで2日を取らなかったんだ。これで、またウェイティングリストの最後尾に回されたぞ。」と、車を停めて、驚愕された。その反応に驚き、「日本行き全部キャンセルして2日とればいいのね。戻って言ってくる。」と、半分ヤケになって言ったら、当たり前だと、車を病院前に戻された。急いで診察フロアに戻るも、人っ子一人いやしない。いや…そりゃ15時5分過ぎてるけどさ…。
 
しょうがなく、とりあえず受付にやっぱり2日でいいですっと言いにもどり、さっきの日程調整抑えてありますよね、と確認するも、あなたの名前はどこにもないしスポットも空いてない。「いやー、とりあえず2日は予約されてないみたいですよ。」とのそっけない返答。帰り道も、次の日の金曜日も(医師休日、連絡とれず)、「私はとんでもない失敗をしでかしたんやないだろうか」というぐるぐる反省会が止まらない。週末は、相変わらずの頭痛と、「私はバカだ…。半年間苦しんできて、またこの辛い生活が半年〜一年続くのか。」と悶々考え続けて、時間が過ぎた。
 
今回自分に言い聞かせたこと。デンマークにいる限り病院での手術予定は、基本断るべきではない。ただでさえ命に関わらない限り、頭痛が続こうが、生活に支障があろうが、一度断ったらいつ自分の順番が回ってくるかわからない。一般的に対応は遅く、カスタマー対応は最小限と心得るべし。特に執刀医が複数人の少々難しい手術の場合、医師同士の調整も難しく、患者の仕事の都合はとりあえず二の次。無料だからか?!医師の対応は、ファミリードクターに比べて、極端に社会主義的。とは言っても、通常はそこまで問題にならないことは容易に想像できる。基本デンマーク人は嬉々として病欠を取るから、予定された手術日を断る人はほぼいないんだろうし。
 
結局、その後5月2日に手術が出来ることになり、嬉しいような…、悔しいような。しばらく検査や療養が必要とのことで、社会生活を最小限に絞ります。
 
 

未来の図書館の姿 その2:Ørestad biblioteket

考えるところあって、大学の近くにアマー地区(Amager)に位置するØrestad(ウアステット)図書館に行ってきた。最近図書館によく行くのだけれど(DOKK1未来の図書館の姿?!とか)、これもその流れの一つ。
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Ørestad図書館は、面白いロケーションにある公立図書館だ。何が面白いって、公立高校の隣、公立小中学校(デンマークでは10年制の一貫義務教育)の地上階に位置している。
 
欧州の図書館は大きく変容している。本を貯蔵する場所ではなく、米国的なコミュニティーハブでも、コンピューターを保有しない人がインターネットを使う場所でもなく、あたらしい役割が模索されている。日本の著名なデンマーク図書館を紹介する書籍で、移民支援や学習支援といった社会的弱者支援をする場としてのデンマーク図書館の役割がフォーカスされていたが、それだけではないというのが、現地に生活するものとしての肌感覚だ。
 
今回は、縁あって、図書館員の方に案内してもらい、色々とお話を聞くこともできた。
 
そのうち、今一緒に創造性教育について調査している友人(友人の図書館訪問記はこちら子供がのびのびと過ごせるデンマークの図書館 | Meimoon-Style)と一緒にまとまった報告が出来ると思うが、この図書館は、地域の学校、住民と人的交流やアクティビティーを通じて密接に関わりを持っていること、新しい子供の創造性支援のためのインフラ作りを進めていることなど、想像以上に面白い発見が多々あった。
 
案内してくれた図書館員の方は、隣接する高校の学生が、うまく図書館を活用できるようにアドバイスする高校生対応を専科とする図書館員の方だ。図書館で働きつつ、高校から予算がついているコペンハーゲンでも珍しいタイプの図書館司書と言えるだろう。
 
個人的に、この方とお話するのは非常に面白かった。図書館員としてのプロフェッショナリズムや、他者の役割を侵さない(自分の役割を認識し、それ以上のことは外部リソースを使うことを前提として動く)態度など、興味深い。特徴のある場所には、特徴のある人が活躍するのかも。