北欧生活研究所

2005年より北欧在住。北欧の生活・子育て・人間関係,デザイン諸々について考えています.

修復師という仕事

f:id:jensens:20161206032117j:imageデンマークには修復師という仕事がある。デンマークに昔から残る絵画やお屋敷の壁や美術品、美術館に保存されている副葬品などの修復を一手に引き受ける。修復師になるには、高校卒業後修復師の学校王立デザインスクールの一部門)5年の教育課程を経る必要がある。5年も通うからそれなりの基礎知識は叩き込まれることになるんだろう。もちろん個々の専門があるけれども、私の修復師の友人は、絵画の修復もすれば、内装の修復もするなど一つのことに囚われすぎてない。このコースに進学すのは、かなり狭き門だ。3年に一度しか開講せず、しかも定員は15名ほど。

最近、日本の伝統工芸に触れる機会が何度かあり、数百年かけて作られてきた日常的な伝統工芸が今の日本から次々と消えていっている現状を知った。いや、ニュースや何やらいで担い手がいないとか、後継者が育たないとかいろいろと報道されているから知らないわけではなかったけれども、特に身近に感じることはなかったし、考えることもなかった。前回、福岡に行った時に見聞きした博多織の現状や現在プロジェクトで取り組んでいる金唐革紙の現状は衝撃だった。

f:id:jensens:20161206032216j:image博多織は私でも知っている工芸品であるにもかかわらず、後継者がおらず、先細るばかり。現在、技術を残すための学校があると聞いて訪問させてもらったが、学生数一桁。伝統工芸を残そうとする意志のある人たちが集まり知恵を出し合い作って後継者の育成に取り組んでいるんだろうけれども、小さな組織でできることは限られる。古い工場のビルを改築して作ったのだろう学校の2階には、美しい織り機がドンと鎮座していた。そこには、パターンを織るための紙の計算機を使う昔ながら美しい織り機があり、機械化されてコンピュータでパターンをインプットして使えるという織り機もあった。その脇では、ところ狭くカッタンコットンと織物をする女性がいた。学生の中には、途中から調子を崩して学校にこなくなっている人もいるんだそうだ。いろいろと要因はあるんだと思うけれども、伝統の伝達や博多織りの教育や織り手としての人生を、うまくスムースに回すのは非常に難しそうな印象を受けた。

f:id:jensens:20161206032252j:image金唐革紙は、日本の伝統工芸として素晴らしい品質が海外で絶賛されたにもかかわらず、どのように作られたのか、どのように海外に渡ったのかきちんとした記録すらないし、その製作技術も不明な点が多いのだそうだ。コレクションが日本にはなくて、海外の方が充実しているって悲しいことだと思うし、何よりもその技術が忘れ去られ、取り戻すことがほぼ不可能、しかも再生するだけの懐が日本にはないことが悲しい。

日本の伝統工芸を取り巻く問題は山積みだ。難しい技術を習得したとしても、生計を立てるだけの収入になる保証はない、材料入手から販売までのエコシステムも整っていない。福岡で博多織りをしている方が言っていたけれども、「いくら伝統が良いと思っていても素敵だと思っていても、ぱっと見でそれほど変わらない製品で値段が一桁違っていたら、皆、安い製品を選んでしまうんだよ」。良いものを判断できる熟練した眼と、文化を保存していこうという心持ち、自分の生活に根付く文化を愛する心がどうしても必要になる。

所変わってデンマークの修復師は、国が文化の保存のため育成するものとして国立大学(ってデンマークには国立大学しかないんだけれども)が人材育成を担っている。修復師って適当に修復する人もいるみたいなんだけれども、仕事のクオリティはその人個人にも大いに左右される。私の尊敬する修復師は歴史家、文化人類学者、考古学者のような人で、深く深く文化や歴史を必要な資料や古文書なんかから紐解いていって、実際に使われた環境だったり状況だったり、道具だったりを特定して修復する(この話は長くなるからまた別の機会にしたいけれども、ともかくも素敵な仕事だ)。ともあれ、修復師の活躍の裏には、母国の文化を大切にする国民がいる。国民は、古いものに価値を見出し、昔ながらのものを大切に使い(デンマークの家具とか食器とかデザイン製品とか有名だよね。ソファーだって布を貼り直して使い続けるし)、自国の製品が大好きだ。国や社会全体が昔からの価値観を大切にして、そこに尊敬の念を抱く。

以前、カールスバークの研究所に行った時に、とても面白いプロジェクトを紹介してくれた。1883年のビールのボトルを見つけて、その古いビールから酵素を抽出、それを元に、1883年のビールを限定品として醸造したというもの(The Re-Brew Project)。「もちろん費用はかかるよ、でも」と、そこの研究者が言っていたことがある。”We would like to utilize our history. We have history while Google doesn't歴史ある企業は、その文化を語り継ぐ義務がある。しかもその歴史を活用することはビジネスにもなるんだよ〜。とでも言おうか。

歴史ある文化は、その文化を語り継ぐ義務がある。色々な素晴らしい何百年もかけて作られたものでも、消えるのは一世代で十分だ。それ以来、誓ったことがある。物に対価を払うのではなく、その物の背景にいる人や文化、その人達の努力に対価を支払うということ。美味しいラーメン屋は、高くてもいい。その美味しいラーメンの背後には、並々ならない努力をして味の維持や改良を進めてきた人がいるから。芸術に対しても対価を支払う。その芸術の域に達するまでの努力をしてきたアーティストの時間に対価を支払う。そんなことを社会全体がしていくことで、日常生活に根付いた良いものが残っていくんじゃないだろうか。「不寛容という見えない敵に」にもあったけれども、お金を払うことへの不寛容、安いからという理由だけで買うのはやめよう。

コペンハーゲンの街並みはなぜ美しいか

f:id:jensens:20161127144507j:imageコペンハーゲンの街を訪れた人は、口を揃えて街のハーモニックな景観やデザイン性に富んだ町並みを高く評価する。確かに、デンマークの街並みは、デザインの配慮が行き届いているし、一貫制があり、美しい。

コペンハーゲン市の役人が言っていたことで、開眼させられたことがある。話しの文脈は、「コペンハーゲン市の2025年目標、世界初のCO2ニュートラルの都市にする。」そのために、コペンハーゲン市が何をしているか、だ。風力発電電気自動車の導入色々と対策がとられており、太陽光発電に話が及んだ。太陽光発電は、都市における鍵の一つであるということを認めた上で、景観を損なわないために、アパートの屋根で中庭側の屋根にのみパネルを設置する、ことを進めている、んだそうだ。どうりで進めてるという割には、太陽光発電を街中で見ないわけだ。

街のデザイン、人々の心地よさをまず考える。そして、その制約の中での解決策を考える。デンマークの街並みが美しく居続けられるわけがここにあった。

子供は実験素材ではない

f:id:jensens:20161123171238j:imageデンマークは課題先進国とよく言われる。様々な社会的実験が行われているし、新しい試みも次々とみられる。アジャイルは、デンマークお家芸とでも言えるだろう。

子供に関する先進的取り組みも多々みられる。デンマークにおいて養子はもはやタブーではなく、試験管ベイビーといった体外受精やドナー(精子卵子・母体)も、だいぶ普通の選択肢になっている。旦那はいらないと、種だけ入手して一人で子育てする女性が雑誌に特集されてたり。

結婚や永遠の誓いに基づく家族制度、夫婦二人の「愛の結晶」として子供を持つといった考え方は、もう旧石器時代の遺物のような扱いを受けているようだ。16年発表の15年統計では、離婚率は47%。前のパートナーの子供をお互いが連れて再婚し、新たに子供をもうけるというケースも珍しくない。

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シークレットミッション

f:id:jensens:20161123171815j:imageここ一年ぐらい、日本からのメールがパワーアップしている。そう、添付ファイルの件だ。まるで、シークレットミッションか何かであるかの様に、添付ファイル付きのメールにはパスワードがかけられ、別送メールでパスワードが送付される。
単なる雑誌用の原稿だったり、ある日の予定表だったりに過ぎない。誰も盗まないし、知られることで損する人がいるとは思えない。
パスワードがかけられることで、iPadiPhone のブラウザで原稿や資料を確認することができないし、何よりも書類をオープンするためだけに2ステップ必要って非効率極まりない。
人の関係や仕事には時に無駄は必要だけれども、これは明らかに無駄だ。

洗濯物たたみは運動であるのか

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現在REACHプロジェクトの調査の一環で、センサーやモチベーションテクノロジーについて、過去論文を読み漁ってる。ほぼ知らない分野だったので新しい発見がたくさんあって面白いのだけれども、2012年頃のもう古い論文を読んでいて、ハッと気づかされたことがある。

現在実験に使っているfitbitは、個人的には非常に気に入っていて、万歩計機能も睡眠測定機能も意外と健康を認識するには役立っているじゃないかと思っている。ただ、最近利用していて時折気になっていたのは、洗濯物をたたんでいるときに、1万歩達成のファンファーレが鳴ったりすることだ。

今回論文を読んでいて、センサーがきちんと行為を認識できてないんだろうということに改めて気づかされた。fitbitが、どんなセンサーを使ってどんな計算式で歩数を認識するようにしているのかわからないけれども、自転車も認識すれば、ランニングも認識する。でも、「洗濯物たたみ」は「歩いている」と、どうやら認識するらしい。

Fitbitを始めてから、記録を見るのがとても楽しみになっていた。fitbitアプリのインターフェースは非常に優れていて、うまくデータが可視化されているから。だが、記録は正しくとられているという前提の元、初めて役に立つのであって、洗濯物たたみが「歩いている」ことになるのであれば、その楽しみは半減してしまうのである。歩いてないのに歩いたことにしてしまっているわけだから、データは誤りで、その誤りを自分は信じていたことになる。

歩くというデータはただの波で、そのままでは普通の人は理解できない。だから、可視化する必要がある。だけれども、誤った情報を本物と誤解してしまう危険性があるという点で、可視化されたものをそのまま信じてはいけないことを、よく肝に命じないといけない。

駐車できない女

f:id:jensens:20161016033414j:imageまた、あのいつもの駐車場でスタックした。なぜかわからないのだけれど、幅寄せしすぎて駐車スペースから出られなくなってしまったのだ。向かい側に駐車した車の親切な紳士が、切り返しし続け、どんどん深みにはまっていく私を見かねて?!親切にも手伝いましょうか?と声をかけてくれたのだけれど、「今は無理!」と向こうにはおそらく理解不能だろう返答をしてしまった。いや、でも本当に頭がショートして危険信号が付いていたので、どうしようもない。
買い物を終わって深呼吸の後に駐車スペースから出ようとした私に背後から「切り返しは反対だよ!」とのアドバイスが飛んできて、顔を向けたらまた同じ紳士だった。
右に切り返してバックするはずのところ、左に切り返す私の頭の中や理解力の乏しさを自分でも説明することはできないのだけれども、自分に改めて正直になると、私は右に行くべき時に左に行ってしまう人なのだ。それを改めて認めなくてはいけないことを久しぶりに再認識した次第。
そして改めて親切な紳士に感謝。本当に親切な人だった(呆れてたかもしれないけれど、そんな様子は全く見せず)。
このような「車でスタック」をかなり頻繁にする私は、まるで外に目があるかのように自由自在に車を操れる人の頭の中の仕組みや身体感覚が実はよく理解できない。ただ、おそらく自分とは全く違う論理で動いているのだろうことは理解できるが故に、できない人を理解できる「できる人たち」は、どのような思考プロセスを持っているのかにとても興味がある。
(つまり、本当は呆れてるのか、それとも頑張ってもりきできないんだということを理解してくれているのかってことです)
そんなことを考えながら夜明けを迎えた時に見た朝焼けがとても綺麗だった。