日本とデンマークの「サービスデザイン」
IAIS |一般社団法人 行政情報システム研究所より、2017年2月号行政情報システムを受領しました。ありがとうございます。少し時期遅れですが、日本に送付いただいていたので、今になってようやく拝読しました。
続きを読む休息の取り方@デンマーク
現在、受け持っているクラスConcept Development with Industryという、企業と一緒に新しいサービスやプロダクトのコンセプトを考えるという授業には、デンマーク人60名ほどと、ジョージアテックの学生数名、日本人一人の交換留学生が履修している。
生徒のリアクションは、初めの頃は非常に静かで、デンマークの学生にしては、反応が少ないと逆に不安に思ったりしていたのだけれども、最近は、ようやく調子付いてきたデンマーク人らしく反応が聞かれるようになってきた。
前回の授業では、学生の発表で11グループが、5分発表、5分講評のセッションをこなしていった。各チームの発表は5分でも、結局、間7分の休憩を取り、合計2時間15分ぐらいかかってしまった。
最後に、「今日のセッションはどうだったか、来年度の授業をよりよくするために何かコメントはないか?」と尋ねたところ、「休憩がないのはよくない。最後はもう疲れて、聞く気も起こらなかった。」と、休憩なく(正確にはなかった訳ではないが、疲れを取るには7分では足りないということだろう)発表を聞き続けなくてはならなかったことに対するコメントがまず出された。理由づけとしては、休憩なく人間が集中できる時間には限りがある、という最もな点が指摘された。
私は、休憩を意識的に取ろうと心がけないと、集中しすぎて休憩を取るのを忘れ、あとで頭痛がする状態によくなってしまう。また、学生から大切な人生の過ごし方のコツを学んだ気分だ。
その後こんなコメントが出された。「最後の発表の人は疲れていて、さらに聞いてももらえず可哀想」「他の人の発表を聞いても、自分たちのチームの課題と違いすぎていて意味がない」「せめて半分ずつに分けて学生の参加時間の負担を減らすべきだ」「先生が全部講評知ればいいわけで、学生に全て参加させても意味がない」など。これらコメントに関しては、あえてノーコメント。
他のチームがどのようにやっているのか、他のチームの進捗を知ったり、やり方を見たりするのはとても重要だと思う、だからこそ全て聞け、参加必修、これが学ぶということである、という私の論理は、どうも彼らには訴求しなかったようだ。
彼らの意見を聞いていて、実際、苛立ちを感じたのは否めないのだが、妙に感心してしまったことも確かだ。働き方、生き方 で述べたように、デンマーク人の効率的な働き方や、合理性の追求や、無駄をとことん省く点は、感嘆ものだと思っている。このような姿勢が浸透しているからこそ、労働時間が少なくて済むんだろうか。
周りを見ていると、自分に不必要であると(自己)判断すれば、全体ミーティングも出席しないし、周囲への理由も「不必要だから」で済んでしまう。周りも多分オッケー。
そんなもんでいいんだと思う反面、本当に学習したかったら、一見無駄に思えることを無視してはいけないと思う自分がいる。急がば回れで、たくさん見て、吸収するのも必要だと思う私がいる。
CoDesignチーム
社会にITや先端機器を導入するときに、実際の作成者の意図が伝わらなかったり、実際のニーズに沿わないことがある。そのような課題は、北欧でももちろん多々あって、そのギャップを埋めるために試みられてきていることが参加型デザインであったり、CoDesignであったりする。
続きを読むリビングラボの肝
北欧に移り住み、はや12年。はじめは、ストレスだった現地の習慣が、知らない間に自分の習慣になっていることに気づいて驚いた。自分では、日本の感覚を持ちつつ毎日の生活をしているつもりでも、改めて意識してみると、意外に「自分が変わっていること」に気づかされる。
文化は、気づかないうちに皮膚に染み込んでいく。同様に新しいマインドセットは、当初は違和感があっても、本質的な利点があれば、知らない間に根付き、意識しなくなくなる。導入が難しいと言われているIT関連事項でも同じだ。デンマークに住んでいて、当初はややこしいと思っていたNemIDや番号制度、電子政府やセルフソリューションも強制的に使わざるを得なくて、始めたものも多いけれども、今はなくては生活が成り立たない。
3~5年の長期的なタイムスパンで、考える参加型デザインの手法「リビングラボ」のキモは、関わる人の意識を変えることだ。つまり、一般に言われるように、単にコミュニティを社会実験の場にすることが本質なのではないし、時間を短縮するためにマニュアル化するのであれば、それには意味がない。利害関係者を巻き込むための工夫や仕掛けは重要だと思うし、例えば一般人にデザインするプロセスに参加してもらうためのツールなどは多くの北欧の研究者が模索してきて今ではかなり充実している。だから、参加型デザインのツール・マニュアルなんかは、役に立つだろうなと思う。だが、本質的に重要なのは、それだけではないのだ。
リビングラボのキモは、「変える」という志向性が、軸の一つになっていることだと思う。新しい考え方を意識的に取り入れていくことで、無意識的に活用できるまでに落とし込み、使っている人たちが知らず知らずのうちに社会変容をもたらしていくアプローチだ。無意識の慣れ段階にまで到達しないと社会変革は起きないんじゃないかと思う。
クラッチの踏み方を考えながら運転する運転初心者から、運転していていることを意識することなく、ギアシフトを意識しなくなるステージに移る感覚だろうか。運転に注力しなくて良いぐらいの「慣れ」が得られて初めて、景色を楽しみ、旅先の交流を楽しむステージに移っていけるのだろうと思う。
そんな場を作るには、デザイナは必要だ。意識変革を促すデザイナ。それが、リビングラボのデザインであり、私はそんな思いで社会課題の解決を目指して、長期的な視点で、リビングラボに取り組んでいる。
時間はかかるけれど、急がば回れの心持ちで、未来に残るものを創り出すリビングラボのプロジェクト。同じようなモチベーションで、一緒にプロジェクトを進めたいという人やプロジェクトや場が増えきている。嬉しいことだ。
男性を子育てにコミットさせる方法
最近、「デンマークの家族」とその変容に関する英語・デンマーク語の文献を読み漁っていて、デンマークをはじめとした北欧の家族の変容に改めて驚かされている。60年代以前は、できちゃった婚がすごく多かった(社会的に結婚せずに出産するということが認められていなかったから出来ちゃった時にかけこみ結婚するということ)社会であったにもかかわらず、今は、男性いらないという女性が種だけもらって出産するなんてこともよくあるケースだ。60年(1.5世代ぐらいで)でそれだけ変わったということに驚きを禁じえない。
そんなちょっと日本の先行く社会だからこそ、どうしたら男性が子供の面倒を見るようになるかとか、そんな研究も散見されてとても興味深い。文化差はあるかもしれないと思いつつも、アニマル人間としては、共通する部分もあるんじゃないかと思うのである。
例えば、女性は、男性に対して単に子供を認知するだけではなく、子供が欲しいという欲求を期待し、この欲求を「愛」であると認識するという。つまり、「子供が欲しくないってことは私を愛してないのねっ」「二人の子供が欲しいってことは、私をそれだけ気に入ってくれているんだわ」と女性は、考えがちなんだそうだ。
また、同じ研究でおもしろいと思ったのは、『女性の欲求の結果、子供を持つようになったカップルは、子育ては女性側が主要な担い手であるという認識を持ちやすいが、父親が子供を求めた結果、子を授かった場合には、子育てを平等に分担する(もちろん事例は北欧のケースなので、あしからず)』という研究結果だ。つまり、男側が「子供が欲しい」といった結果、子作りをすることになったケースの場合は、子供が生まれた後に、男性が子育てにコミットしているということらしい。
ただし、一般的に男性の方が少ない数の子供(1-2人)を求め、女性の方がより多くの子供を欲すると言われている(オーストラリアの研究だけれども)から、たとえ男性が子供が欲しいと言って家族計画を実施したとしても、女性と男性の子育てへの負担や義務感は、アンバランスにならざるをえないようなのだ。「俺は一人で十分だったのに…」とか。
このようなことが研究によって明らかにされつつあり、これらの知見は、少子化対策として活用できるんじゃないかと思う。例えば、国が子育て支援政策として女性支援やバラマキの代わりに、子供が欲しいという男性側のニーズが確認できるカップルを優先して育児支援するとか。
他にも、なぜ北欧の男性は子育てをするのかという疑問に、面白い視点が多々見られる。こちらは、また別の機会にまとめたいと思う。