北欧生活研究所

2005年より北欧在住。北欧の生活・子育て・人間関係,デザイン諸々について考えています.

女子だけのシークレットゲーム

f:id:jensens:20170210022238j:image娘(8)の行く学校のギュリュ先生より、2年生のクラス女子のみに向けた連絡が来た。「この金曜日から、イースターまでの約1.5ヶ月の間、クラスの女子だけを集めて、授業後の学童の時間にかけて、特別なゲームをやります。」そんな言葉で始まったメールには、「この新しいゲームは、皆で協力するゲームです。一人がルールを全部決めるのではありません。」などと書かれていた。ゲームの間には、「お話」もするとのことで、その話の内容は、「良い友達とは。お互いに尊重し合うには、どのような態度を示せばいいか。議論になるのはどのような時か。どのようなことを努力し、どのようなことに取り組む必要があるか。」などが例として挙げられていた。

シークレットミッションか?とメールの最初数行を読んだ時に、ドキドキしたのだけれども、なんだそういうことか、と合点がいった。

いつの時代にも、今でも30年前の私が娘ぐらいの年代だった時も、女子グループにつきまとう課題がある。多かれ少なかれ皆、意図的にせよ無意識のうちでも、被害者であったり加害者になったり経験するのだろう。
今までにも、娘の幼稚園や学校には「友達を誕生会に呼ぶ時には、女子全員もしくは男子全員、あるいはクラス全員を呼ぶ」というルールがあったり、「先生が指定する友達グループ」が学年の初めに発表されて、そのグループで、一緒に遊ぶことが奨励されたりしていた。クラス全員は20人弱ほどだけれども、女子だけでも呼ぶのはかなりの負担で、そこまでするんだったら呼ぶのやめるか、というケースにもなりがちだ。そのようなルールをとり決める背後にあるギトギトした理由はわかるのものの、何もそこまで、と思ったりもしていた。だって、成人になっても、気が合わない人とは職場では一緒でも、誕生日などプライベートを一緒に過ごすなどあり得ないから。それは強制されるものではないし。

正直、大人になっても同じような「ハブ」られる、「ハブ」るケースは、多々発生する。場所がどこであろうといつの時代でもつきまとう課題だからこそ、子供時代だけでなく大人になってからも同じような事象は無くならないからこそ、子供達には自分たちで考えて自分なりの解決策を探して欲しいし、大人が介入することで考える機会を損失したり、不必要な干渉とならないようにする必要があるんじゃないかなと思っている。

個人的な思い出話をするならば、私も小学校1年生の時に3人組で苦労した覚えがあって、その時の痛みや悲しみは今でもよく覚えているし、逆の立場になったことも恥ずかしながら多々ある。けれども、親が干渉することは(時々はあったけれども)基本なかったと思うし、今思い返すと、時とともに自分で解決していったり、折り合いをつけたり、自分なりの対処方法を学んだのは良いことだった。失敗は、痛みが小さく済むうちに沢山しておけって奴だ。

しばらく、そんな女子グループからは遠ざかっていた私が、驚いたことについ最近も似たようなことを経験した。40も間近になって。「友達だから」と誘われた夕食会で、気の置けない友人だからしたはずの遠慮ない数週間前の発言を引っ張り出して笑いながら、2人で私の「人間性」を罵倒してきたのだ。多勢だから強くなる人もいるし、自分たちの常識に外れるといって「人間以下だよね」と平気で面前で言ってくる人もいる。今でもその時のきっかけとなった発言を後悔してはいないけれども、「友達」という甘言に惑わされ、違う世界の人たちに通常は見せない面をさらけて、全開もいいとこシールドなんて全く張ってなかった私は、久しぶりに立ち直るのにしばらく時間がかかった。
こんな話をするのは、感傷に浸りたいわけではないし、愚痴りたいわけでもない。残念ながら、女子グループには無意識か意識的か、自分グループの常識に合わない人を排除するそんな側面がある。大人になっても変わらない。そういうものだということだ。だから子供のうちに自分なりの解決策を見つけ出したほうがいい。
強制的にルールを決めてもなくならないこともある。だからこそ、強制しても無理だからこそ、話し合いの機会を持ったり、互いが違う意見を持っていることを認識しあったり、考えさせるということは、やめてはいけないことだ。そんな簡単に思えるけれども実は難しいことに取り組んでいる学校に、なんだか心打たれた。不満もない訳じゃないけれども、そんな努力をし続けようとする今の環境は、非常に健全な場所だと認めざるを得ない。