北欧生活研究所

2005年より北欧在住。北欧の生活・子育て・人間関係,デザイン諸々について考えています.

教育の社会化と分散化

f:id:jensens:20170712223720j:imageだいぶ昔だけれども、デンマーク式文化洗脳教育で、デンマークの子供は6ヶ月から1歳ぐらいの幼児期から施設にいる時間が長いので、子供のデンマーク語の話し方が両親の話し方ではなくて、コペンハーゲン方言の話し方になっているということを書いたことがある。

デンマークでは、人としての教育の基盤は、一昔前の農業時代には家でほぼ培われていて、家の方針がみっちりと刷り込まれていたかもしれないけれども、現在は、母親父親両親ともに働く社会となり、子育ては分散化・社会化している。子供の基礎的な行動は幼稚園で学び、子供の知的能力は学校で支えられ、身体能力は学校外クラブ活動で支えられている。武道なんかをやっていると、デンマーク人でも学校では習うことのない団体行動の規範を知っていたりする。親が団体行動のイロハを知らないかもしれないけれども。これは、社会が理想的な子供像を共有しているということが前提であるが故に、社会の手によって育てられる子供は、その共有される子供像に沿って育つという意味で、マイナスに捉えられがちな社会化ではあることを認めた上で、タスクの分散化に関しては、悪くないと思うことが最近頻繁にある。

 数週間前、子供の幼稚園では、一週間外部のアーティスト集団を幼稚園で招き、アートプログラムを実施した。息子の幼稚園には、アーティストが常駐しているわけではないので(常駐している幼稚園もあるらしい)、外部資源を活用することで、芸術週間を設置し芸術に子供たちを触れさせるという方策だ。普段の幼稚園の先生方がやっている教育や育児とはまた違った刺激となっていたようで、子供たちも満足げだった。

こんなことを改めて考えたのは、つい最近、日本の学校の先生たちが疲弊しているというラジオを聞いたからかもしれない。今まで必要だと思われてなかったり、カリキュラムに含まれていなかったり、今の社会の要請で加わった全ての新しい知識や知見を、日本の今までの枠組みとリソースの中でどうにか実施しようとしていて、学校が疲弊しているというもの。もちろん、先生たちは、ない時間をやりくりして自分たちでも新しい知識を勉強しないといけないし、そのほか通常の仕事もたくさんあるしということで、学校は、ブラック企業ならぬブラック職場になっているんだそうだ。例えば、多様性に関してとか、キャリアプランニングとか、英語の会話とか、情報の授業だとか...、全てを学校でやらせようとしていることで、日本の学校や教師が疲弊しているその状況を聞いて、聞いていて胃が痛くなってきた。

日本の包括教育は素晴らしいと散々言われてきたし、実際に私もそう思う。日本での包括的な教育で提供される音楽や体育、文化祭や音楽祭などは、学校での楽しい時間と思い出作りに貢献していると一般的に言われるだろう。給食や掃除なんかも、デンマークの学校では見ないし、良い面が多々あることを認めたい。個人的にもよかったことはたくさんあると思っている。五線譜の読み方なんかは、音楽的なアクティビティに特に携わっていなかった我が家族が故に、学校が教えてくれなかったらおそらく読めないままだっただろう。

ただね、日本の社会は変わってきているし、人口も減ってきているし、社会も変わっている。教育で求められていることも変わってきているはずなのに、昔からの教育方法を変えず、学校の枠組みも変えずに、マンパワーがないこの日本社会で、仕事を増やしても...今の限られた人的リソースやバジェットで、新しいことを取り入れる余裕がどこにあるっていうんだ?新しく何か増やしたいなら何かを減らさないといけない。簡単な計算なはずなのに。

家庭や学校の枠組みで提供されてきた各種事項を、親の手や学校の手から分散させている社会に住んでいる今、悪くないどころか、いつでも専門家の指導を受けられる環境は、とてもいいんじゃないかと思うようになってきている。私も洗脳されてきているかな...。