葬式や命日をする理由
先日は大好きな伯父の月命日だった。コロナ禍の期間に亡くした親戚は2人目となる。祖母の葬式にも伯父の葬式にも、何があっても駆けつけるはずだったのに、コロナに阻まれた。飛行機はあった、旅費だって捻出すればどうにかなったはずだ。ただ、3日間のホテル監禁と14日間の自宅待機で、2日後のお通夜にもお葬式にも間に合う見込みはなかった。
数日の間、私もお通夜に行ってお葬式に参列して、親戚の皆と祖母について伯父について話したかった、と事あるごとに考えていた。でも、それは、祖母や伯父のためなんだろうか?私が、他界した親戚の思い出を皆で語り合いたかったのは、なぜなのだろうか。
続きを読むデンマークのヤンテの掟
デンマークが大好きだ、北欧文化に関心があるという日本人と話をすると、時折「ヤンテの掟」が出てくる。多くの場合、「ヤンテの掟」は、北欧人は謙虚であるというポジティブな文脈で紹介されることが多い。デンマーク(北欧人)の価値観として紹介されることも多く、今の北欧諸国の高福祉政策や平等社会の実現に寄与した要因として捉えられていることも多い。
北欧に住んで16年、このポジティブな捉え方にはずっと違和感を感じていた。どちらかといえば、ヤンテの掟に描かれているのは、今のデンマークにはない美化されすぎた道徳的なイメージ、もっと言えば、現在のデンマークには見られなくなりつつある(1930年当時の)キリスト者的な清貧と倫理の思想と当時の(宗教)コミュニティの同調圧力だからだ。私がそこに見てしまうのは、中世の魔女狩りや異端審問だったりする。
デンマークのキリスト教に関しては「デンマークのキリスト教は好きになれない」で以前にも書いたが、非常に抑圧的で人々の精神生活に入り込んで生活の規範になっていた側面が強く、今の自分が生活をするデンマークから受ける印象と一線を画す。
ヤンテの掟
ヤンテの掟とは、Wikiから要約すると、デンマークに生まれのアクセル・サンデモーセのノルウェー語小説『逃亡者はおのが轍を横切るEn flyktning krysser sitt spor』(1933年初版)に挿入される「ヤンテ(ヤンデ)の掟(Janteloven)」と呼ばれる10箇条の禁忌を示す架空の戒法である。その10項目とは次のようなものだ(同じくWikiより)。
自分がひとかどの人物であると思ってはいけない
自分が我々と同等であると思ってはいけない
自分が我々より賢明と思ってはいけない
自分が我々より優れているという想像を起こしてはいけない
自分が我々より多くを知っていると思ってはいけない
自分が我々を超える者であると思ってはいけない
自分が何事かをなすに値すると思ってはいけない
我々を笑ってはいけない
誰かが自分のことを顧みてくれると思ってはいけない
我々に何かを教えることができると思ってはいけない
デンマークを形作る現代の思想
ポジティブな印象を持って語られるこのヤンテの掟に対してデンマークで生活している私が感じるのは、70年代の大きな社会変革が起きる前にデンマーク社会に蔓延っていた均質性への固執であり、相互抑圧的な価値観である。もちろん100年近く経っているとはいえ、同じ国であるから根っこに合い通ずるものはあるのだろうし、時折(特に高齢者の行動に)ヤンテを思わせる行為がなくもないが、ヤンテの掟をよりどころにして北欧を論じるのはそろそろ終わりにしてもいい。
2016年末には、当時文化相バーテル・ハーダーの旗振りで「デンマーク社会を形作る10の価値観」が作られている。Foreningやボランティア活動、自由、男女平等などが挙げられており、個人的にもよっぽどこちらの方が今のデンマークの価値観を形作っていると感じる。ちなみに、市民の意見を聞いて作られたはずの「10の価値観」であるが、市民からは賛否両論で新しい「10の価値観を作ろう」とする動きが見られたりするし、広く合意されているわけではないようだ。ただ、遡ること数年前、同様の「ヤンテから脱してもっと積極的なメッセージにかえよう」との主張が女王マグレーデ2世からも発信されていることを考えても(Wiki)、「ヤンテの掟」が日本で一人歩きしている状況は、やはりどうにかする必要があると思っている。
デンマークには「ヤンテの掟」っていうのがあってそれがデンマーク人の行動規範を形作っていると偉そうに説明する人がいたら、なんちゃってデンマーク通だと疑ってかかると良い。
北欧のミライの図書館
図書館訪問記
雄大な景色を見た時に感じるあの感情はなんなのだろうか
雄大なノルウェーの雪に覆われた山々、断崖絶壁のフィヨルド、目の前にそんな大自然を見たときに、ちょっとした寂しさを伴う感情を覚える。あの、ちょっとした寂しさを伴う感情はどこから来るのだろうか。悲しいわけではないはずだけれども、ちょっとした寂寥感を覚えて、大自然を見ながら涙が止まらなくなることがある。
Clubhouseの人気からもわかるように音に関する注目は最近富に高まっているが、少し前から音が人間に与える影響なども研究が進んでいる。Julian Treasureによると、海の波のさざなみは、人間の睡眠時の呼吸のリズムと同じなんだという。だから、波の音を聞くと人は安心感を覚える。人が鳥のさえずりを気持ちよく感じるのは、鳥がさえずっているということは危険が迫っていないことを示しているからで、それを私たち人類は本能的に理解しいているのだという。私たちは、日常生活で、鳥がさえずっているから平穏だなとか、波の音は眠っている時みたいで安心するなとは、意識して思わないだろうが、音は確実に人間に影響を与えている。
この話を聞いてから考えたのは、聴覚に与える影響が人間の考え方や健康や感情に影響するのであれば、視覚から受ける影響も、同様にあるのではないかということだ。
自然を見た時に感じるあの不思議な感覚は、何か私たちにメッセージを届けてくれているのだろうか。自分では認知し得ないDNAに埋め込まれた何らかの古代の知恵や経験が、私たちにあの感覚を届けるのだろうか。
スウェーデン王の公然の秘密を知ってしまった
ノルウェードラマの躍進が止まらない。私の中で。
国営放送が作り出すドラマや映画が、この数年次々に公開されている。特にナチスドイツ占領下の物語が次々に公開されている。ノルウェーの誇りを示す物語として国民から人気を博しているということもあるだろうし、時代的にも第二次世界大戦のことがより詳細に語られやすくなったということもあるんだろう。私はノルウェー人でもなんでもないのに、誰も入れなさそうな雪山に突如として白一色のノルウェー勇姿が現れ、ナチスに追いかけられる人たちを救ったり、深い雪山でのシークレット・ミッションをこなすシーンには、感動でいつも鳥肌が立つぐらいだ。ノルウェー人の気持ちはいかほどか。
以前にも紹介した「Kampen om tungtvannet (重水の闘い)」もノルウェー魂(?)を感じさせられるドラマだったし、映画「ヒトラーに屈しなかった国王」も骨太な映画だった。ちなみに、重水の戦いは、ナチスドイツ占領下のノルウェーの話、映画「ヒトラーに屈しなかった国王」は占領前夜の物語だ。
2015年NRK(ノルウェーテレビ局)製作のKampen om tungtvannet (重水の闘い)は、ノルウェーテレビ局のテレビドラマ作品だ。第二次世界大戦中、イギリス軍とノルウェー人(イギリス軍に合流)が協力し、ノルウェーのテレマーク地方にあったヒュドロ重水工場の破壊工作を進めた一連の作戦をドラマ化したもの。
そして、この数日ハマっているのが、Atlantic Crossing。またしてもNRK(ノルウェーテレビ局)による2020年製作作品で前述二つの物語と時期を同じくするが(ノルウェーはよっぽどこの時期が好きなんだろう。多分今までのノルウェー歴史のハイライト)、中心人物となっているのは、ノルウェー皇太子妃。ノルウェーがナチスドイツに占領されるという状況に直面して、ノルウェー王とオーラウ(Olav)皇太子はイギリスへ、皇太子妃のマーサ(Märtha)は米国に疎開する。
何が良いかと聞かれると色々理由はあげられるが、なによりも、まず映像が美しい。ノルウェーの雪山、米国の雄大な自然、そして、いままで知らなかったスキャンダラスな歴史が満載なのだ。物語は、「史実にインスピレーションを受けて作られた」と記載されているのであるが、なにしろ物議を起こしそうなシーンが満載だ。
1. マーサ皇太子妃の叔父にあたるスウェーデン国王がナチスのシンパだった
マーサはスウェーデン皇室の皇女でノルウェー王室に嫁いだ。ノルウェーにナチスが侵攻した際に陸路でスウェーデンに入り、ストックホルム宮殿にしばらく避難するのだが、叔父にあたる国王からそして周囲から圧力がかかり、米国行きを考えるようになる。ノルウェー・デンマークがナチスのナチスの侵攻を避けられなかったにもかかわらず、中立国でいつづけられたスウェーデンの秘密がここにあるのかもしれないけれども、これはイッテイイコトナンデショウカ。
2. 皇太子妃マーサは、フランクリン・ルーズベルトと恋仲だった
いやぁ、それはいくらなんでも...。と思ったのだが、Wikiにつぎのような記載を見つけた。
ルーズベルトのマッタへの敬愛の情は非常に深いもので、ルーズベルトにとっては最後の恋愛感情の対象でもあったのではないかと息子のジェームズ・ルーズベルトは述懐している。
これも公然の秘密なんだろうか。
3. ノルウェー王ホーカンの溢れる人間味
もちろん皇室でも人間なわけで、聖人君子というわけではないだろうが、あまりにも人間味に満ち溢れていて、ここまで晒していいのだろうかと心配になった。ナチスが侵攻したばかりのホーカン王、家族やノルウェー首相らと北に逃げるのだが、どうも頼りない。ベッドの向こう側に小さく膝を抱えて座り込み部屋から出て来なくなったシーンには、私が目を逸らしたくなった。
北欧のドラマは、やはり北欧色に溢れていて、こんな歴史物であっても、男女の平等とか正義とか民主主義とか、透明性とか考えさせられるわけです。
皆でつくる社会
首相:「これまでの間の国民の皆さんの御協力に感謝申し上げますとともに、全ての地域で緊急事態宣言を終えることができず、誠に申し訳なく思っております。...自治体と協力し、医療体制の確保も全力で行います。引き続き制約の多い生活で御苦労をおかけいたしますが、今一度皆様の御協力をお願いいたします。。。。 新型コロナウイルスの発生から1年以上たちました。我が国でも、世界でも、なおウイルスとの闘いは続いています。私も、日々悩み考えながら走っております。国民の皆さんの不安を少しでも解消するために、あらゆる方策を尽くし、私の全ての力を注いで取り組んでまいります。今一度の御協力を国民の皆さんにお願いを申し上げます。私からは以上です。」(首相官邸より引用)
毎回、首相スピーチや記者会見でぞわぞわっと広がる違和感はなんだろうと考えていた。うまい説明の仕方をまだ見つけられていないのだけれども、一つ明らかに言えるのは、政府側の「対応ができてないことへの謝罪とお願い」、記者や市民側からの「対応ができてない政治への非難」という、与える側と受ける側に分かれた対立図式が、当然のことのように受け取られていることだ。そして、これは、私が生活するデンマークで見られる政治家と市民の関係性と、根本的に異なる。
これは、まるで、勘違いした親子関係に似ている。親も子供も「親は子供の面倒を見ることが当然」と考えていて(まぁそれは誤ってないけれども)、子供は「面倒を見てくれない親を非難して当然」と思っていることだ。我が家でも子供との会話でよくあることだ。20時すぎてベッドに入っていない息子に、「もう8時である」と叱ると、歯を磨いてくれないから寝てないのだと主張する。子供は自分で歯を磨こうともしないのに、意見だけは一丁前だ。
類似の内容を以前にブログで書いたことがあるのだが、その一部を引用したい。
「一人一人が、社会と国を支える一人として、自分ごととして、政治を考えること、自分が社会のために国のために、何をすべきで何が貢献できるかということを考えるという民主主義の基礎」がある。
これは、ケネディの有名なスピーチ「My fellow Americans, ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.」にも述べられていることだ。
政治家は、市民の代表として自分たち市民の声を代弁して国の舵取りをする役割であることに違いないのだが、これは、私たち市民がすべてを「代議士先生におまかせ」するという意味ではない。私たち市民がしなくてはならないのは、政治家の仕事を支えるために建設的な提案したり、意見したり、アクションを起こしたりすることであって、政治家を非難することではない(時には必要だが)。政治家の国の舵取りがうまくいかないとすれば、その政治家を選んだ私たち市民の失敗でもある。
同時に、政治家がするべきことは、謝罪とかお願いではなくて(時には必要だが)、国の適切な運営であり、リーダーシップであり、未来を描くことだ。そして、市民がきちんと判断し義務を果たせるように透明性を確保し、プロセスを可視化し、エビデンスをわかりやすく示すことだ。データや現状分析や戦略などの情報を提供し、市民一人一人が一丸となって行動し政治を支えるようにすることとなんじゃないかと思うのだ。
何が言いたいのかというと、謝る前にするべきことがあるだろう、ということ。もっと具体的に言えば、「申し訳なく思う」と言ってもいいけれども、感情は横に置いて、まずコロナ対策がうまくいくように政府が積極的に取り組むべきなのは、今までどうしてきたか(過去)、その結果今の状況がどうなっているか(現在)、だからどうしていきたいのか(未来)、と、適切な情報を透明性を持ってわかりやすく伝え、向かう道を示すことだ。曖昧な言葉で終わりにせずに、具体的な証左やリーダーシップや方策を示すことだと思う。
本日、ロフトワークスさんの「コモンズを民主化する ヨーロッパの公共サービスはなぜ再公営化されたのか?」を聴講していて、気付かされたことがたくさんあった。(いやー、とても良いセッションだった。オンラインで日本の議論が聞きやすくなったのは、コロナの恩恵だな。)棚橋さんが「義務を負う人による自治が民主主義である」と言っていて、上手い言い方だなと嬉しくなった。林篤志さん(コモンズラボ)の活動は、日本でたくさんの人がアクションを起こしている!ことが見事に可視化されていた。
政治家は確かにだらしないから批判したいし、色々と不透明すぎて判断材料が乏しいが、政治家のせいにだけしていないで市民が動く時期にきている。おまかせじゃなくて動くことだ。
コロナ禍のレミセ公園に行ってみた
新聞の記事で、去年の秋頃にAmager(アマー)にあるレミセ公園に新しい巨人が登場したことを知った。この「おしゃぶりトロール(Suttetrolden)と名付けられた巨人は、すでにコペンハーゲンエリアにある廃材トロール作品の最新版だ。アーティストのThomas Dambo氏が廃材をかき集めて作っている巨大トロールは、いつの頃からか注目されるようになって、私もいくつか探しに行った。街の片隅に突然現れる巨人の姿は壮観だ。子供が登って楽しめるぐらいの巨大なトロールで、本当は私も登りたいのだが、いつも子供でいっぱいなので憚られる。まぁ、おそらく、大人が乗るべきではないんだろう。
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