北欧生活研究所

2005年より北欧在住。北欧の生活・子育て・人間関係,デザイン諸々について考えています.

継承語と多言語多文化教育

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(写真: デンマーク図書館。図書館は学習する場所、身体性を生かした学習も含まれる)

どうやら日本語を「継承語(Heritage Language)として学ばせる」という動きが、世界各地に住む日本人の中で見られるようになっているらしい(正確には日本人だけではなくてカナダや米国など筆頭に多言語多文化環境の様々なところで見られている)。夏にデンマークに来てくれた茜ちゃんが米国で継承語クラスを実践し、フランスに住む中高の友人が時折呟いていて、最近、気になっていた。

この継承語、「親から受け継いだ言葉」が一般的な定義となっているようだが、日本語を、自己のルーツを継承することを目的とした言葉として学ばせることとでも言えるだろうか。例えば外国に長期滞在/永住する日本人(よくあるのがパートナーが外国人)が、自分の子供(よくあるパターンがハーフの子)に日本語を学ばせたいとする。今までは、多くの人が子息を日本人補習学校などに行かせていただろう。ただ、これにはいくつかの課題がある。

 一つには、日本語補習校のカリキュラムは、現在の日本の教育指導要領に基づいた日本の教育が基盤となっており、基本的に海外に住むことがわかっており、日本に戻って教育を受ける予定のない子供達には、不要である事柄も多々見られる。

よく言われるものとして、2つ目に挙げたいのは、短期駐在者の学習阻害要因になっているという点だ。調べた訳でではないけれども、どうやら補習学校は、駐在などで数年しか海外に滞在せず、戻った時のことを考えて日本式に教育を受けておかなくてならない子供のための学習環境という位置付けらしい(これがそもそも時代錯誤になっていると思うのだが)。しかしながら、多くの日本人補習学校は、日本語スキルの違いが顕著なハーフの子どもたちがマジョリティになっているという現状がある。短期滞在者及び海外永住者の日本語スキルの違いは明確で、短期滞在者に合わせて授業を構成してもおそらく成立しないクラスの方が多いだろう。

3つ目に挙げたいのは、私が個人的に最も気になっていることで、日本の教育プログラムに脈々と流れる教育目的が時代遅れになっているのではないかという懸念だ。21世紀に必要とされている教育は、創造性教育であり、課題を見つけ、チームで課題を解決させる教育であると言われるようになって久しい。にもかかわらず、旧式日本式教育(詰め込み教育)的思考に基づいた教育プログラムを、日本での受験を控えているわけではない子供達に与えても百害あって一利なしと考えている。

海外に住み日本をルーツに持つ子供達に本質的に必要な日本語の教育とは何かということが、基本的な継承語という考え方の根本にあるのだろう。5人に一人の日本人が国際結婚をしているという現状を考えると、多くの日本人親がこの母国語と継承語の課題に直面しているに違いない。継承語という考え方は、日本人補習学校のカリキュラムについて行くハイレベル(?)の日本語がわからなくても良い、でも子供に自分の母語を理解させたいなどの親のエゴもあるだろう。けれども、子供が成長してから「ハーフなのに話せない」という無念さを味あわせることをなるべく避けたい、ネイティブが近くにいるのだから活用させようといった積極的な継承語推進者の見方もあるみたいだ。

私は、デンマークで子供を補習学校に行かせているのだが(週末のみ)、デンマーク式創造性教育を基盤とした義務教育と日本の補習校での教育は根本的な価値観に乖離がありすぎることを身をもって感じるから(以前からこれには非常に悩まされていて、デンマーク式教育再考デンマークの創造性教育など色々と書いている。)、継承語という考え方はもっと広まればいいと思っている。日本語を学習する目的は色々あっていいはずだし、漢字や九九が覚えられなくても、コミュニケーションのツールとして日本語会話を学ぶことで、得られる世界の広がりは無限大だ。さらに、指導要領準拠への熱意レベルなども分類されて、課題2で挙げた課題も解決さえるんじゃないだろうか。

補足しておきたいのは、私は個人的には、継承語としての日本語はあまり関心がなく、子供には補習校において日本語で学習してほしいと思っている。その主な理由は、日本式教育には、日本の感性が埋め込まれていると考えるからだ。日本社会で学習するような感性を養うことは難しくてもその一端を学んでほしいと思う。日本の国語の教科書では、小学校2年生にして妹の面倒をよく見ていたずらも許してしまう許容度の高さを見せるお姉ちゃんが描かれれる一方で、スウェーデンのロッタちゃんはわがままで盗みもしてしまうような子どもだ。日本の教科書には、自然への賛歌や家族愛が描かれる一方で、デンマークの国語の教材には、アル中の父親や離婚や、別の男性を連れてきた母親が描かれる。記号としての言葉だけではなく、コミュニケーションツールとしてだけではなく、文化としての日本を日本にルーツを持つものとして学んでほしい。

いうまでもないことだが、国の動きはこの分野に対しても鈍い。海外にすむ日本人が増えている以上、海外に住みルーツの一端を日本にもつ未来を担う若者も増えている。日本国は、補習学校に補助金を出し海外子女の支援を行なっているが、日本にルーツを持つ海外在住者のリソースの育成や活用には全く目が向かないようだ。両国の言語に通じ日本に愛着を感じている人たちを、日本や日本企業が戦略的に利活用できないのはもったないとしか言いようがない。日本は戦時中敵国語として英語の学習を禁じた一方で、米国は諜報員に日本語を学習させ、研究者に日本研究をさせた。排除ではなく、受容と活用を!同じ轍を踏まないといいのだけれども。