デンマークには修復師という仕事がある。デンマークに昔から残る絵画やお屋敷の壁や美術品、美術館に保存されている副葬品などの修復を一手に引き受ける。修復師になるには、高校卒業後修復師の学校(王立デザインスクールの一部門)で5年の教育課程を経る必要がある。5年も通うからそれなりの基礎知識は叩き込まれることになるんだろう。もちろん個々の専門があるけれども、私の修復師の友人は、絵画の修復もすれば、内装の修復もするなど一つのことに囚われすぎてない。このコースに進学すのは、かなり狭き門だ。3年に一度しか開講せず、しかも定員は15名ほど。
最近、日本の伝統工芸に触れる機会が何度かあり、数百年かけて作られてきた日常的な伝統工芸が今の日本から次々と消えていっている現状を知った。いや、ニュースや何やらいで担い手がいないとか、後継者が育たないとか…いろいろと報道されているから知らないわけではなかったけれども、特に身近に感じることはなかったし、考えることもなかった。前回、福岡に行った時に見聞きした博多織の現状や現在プロジェクトで取り組んでいる金唐革紙の現状は衝撃だった。
博多織は私でも知っている工芸品であるにもかかわらず、後継者がおらず、先細るばかり。現在、技術を残すための学校があると聞いて訪問させてもらったが、学生数一桁。伝統工芸を残そうとする意志のある人たちが集まり知恵を出し合い作って後継者の育成に取り組んでいるんだろうけれども、小さな組織でできることは限られる。古い工場のビルを改築して作ったのだろう学校の2階には、美しい織り機がドンと鎮座していた。そこには、パターンを織るための紙の計算機を使う昔ながら美しい織り機があり、機械化されてコンピュータでパターンをインプットして使えるという織り機もあった。その脇では、ところ狭くカッタンコットンと織物をする女性がいた。学生の中には、途中から調子を崩して学校にこなくなっている人もいるんだそうだ。いろいろと要因はあるんだと思うけれども、伝統の伝達や博多織りの教育や織り手としての人生を、うまくスムースに回すのは非常に難しそうな印象を受けた。
金唐革紙は、日本の伝統工芸として素晴らしい品質が海外で絶賛されたにもかかわらず、どのように作られたのか、どのように海外に渡ったのかきちんとした記録すらないし、その製作技術も不明な点が多いのだそうだ。コレクションが日本にはなくて、海外の方が充実しているって悲しいことだと思うし、何よりもその技術が忘れ去られ、取り戻すことがほぼ不可能、しかも再生するだけの懐が日本にはないことが悲しい。
日本の伝統工芸を取り巻く問題は山積みだ。難しい技術を習得したとしても、生計を立てるだけの収入になる保証はない、材料入手から販売までのエコシステムも整っていない。福岡で博多織りをしている方が言っていたけれども、「いくら伝統が良いと思っていても素敵だと思っていても、ぱっと見でそれほど変わらない製品で値段が一桁違っていたら、皆、安い製品を選んでしまうんだよ」。良いものを判断できる熟練した眼と、文化を保存していこうという心持ち、自分の生活に根付く文化を愛する心がどうしても必要になる。
所変わってデンマークの修復師は、国が文化の保存のため育成するものとして国立大学(ってデンマークには国立大学しかないんだけれども)が人材育成を担っている。修復師って適当に修復する人もいるみたいなんだけれども、仕事のクオリティはその人個人にも大いに左右される。私の尊敬する修復師は歴史家、文化人類学者、考古学者のような人で、深く深く文化や歴史を必要な資料や古文書なんかから紐解いていって、実際に使われた環境だったり状況だったり、道具だったりを特定して修復する(この話は長くなるからまた別の機会にしたいけれども、ともかくも素敵な仕事だ)。ともあれ、修復師の活躍の裏には、母国の文化を大切にする国民がいる。国民は、古いものに価値を見出し、昔ながらのものを大切に使い(デンマークの家具とか食器とかデザイン製品とか…有名だよね。ソファーだって布を貼り直して使い続けるし)、自国の製品が大好きだ。国や社会全体が昔からの価値観を大切にして、そこに尊敬の念を抱く。
以前、カールスバークの研究所に行った時に、とても面白いプロジェクトを紹介してくれた。1883年のビールのボトルを見つけて、その古いビールから酵素を抽出、それを元に、1883年のビールを限定品として醸造したというもの(The Re-Brew Project)。「もちろん費用はかかるよ、でも…」と、そこの研究者が言っていたことがある。”We would like to utilize our history. We have history while Google doesn't ” 歴史ある企業は、その文化を語り継ぐ義務がある。しかもその歴史を活用することはビジネスにもなるんだよ〜。とでも言おうか。
歴史ある文化は、その文化を語り継ぐ義務がある。色々な素晴らしい何百年もかけて作られたものでも、消えるのは一世代で十分だ。それ以来、誓ったことがある。物に対価を払うのではなく、その物の背景にいる人や文化、その人達の努力に対価を支払うということ。美味しいラーメン屋は、高くてもいい。その美味しいラーメンの背後には、並々ならない努力をして味の維持や改良を進めてきた人がいるから。芸術に対しても対価を支払う。その芸術の域に達するまでの努力をしてきたアーティストの時間に対価を支払う。そんなことを社会全体がしていくことで、日常生活に根付いた良いものが残っていくんじゃないだろうか。「不寛容という見えない敵に」にもあったけれども、お金を払うことへの不寛容、安いからという理由だけで買うのはやめよう。