(デンマークでも紫陽花が盛り。内容とは関係なし)
デンマークで研究をするようになって困難を極めたのが、ITシステムのデザインをやっているはずなのに、その理論的背景を説明するように求められる状況に陥ったこと。それはそれで良いことだったと思う。新規性を誇るだけでなく、その社会的意味もきちんと考えることは、コンピュータが社会にあまねく広がった現在、とても重要なことで、これは、デンマークに来てなかったら持つことができてなかっただろう視点だ。
この10年ほど前に私がいた研究課には参加型デザイン系・CSCW系の研究者が多数いて、作る人(コンピュータサイエンス系)も分析する人(社会学系)もいたし、理論と作ることの間に緩やかな交流があった。ただその後、CSCW研究者は大挙して出奔(マネージメントと喧嘩して大挙して別の大学に移動した)し、代わりに入ってきたのが、STS(Science and Technology Studies)の研究者だった。そのSTS研究者の基盤がラトゥールでありANTであったが、そのラトゥール理論の難解さから、その時から足を踏み入れるのをあえて避けていた。ところがそれだけ欧州で人気がある研究者で理論なので、北欧系・欧州系の学会や雑誌に論文を投稿すると「ラトゥールを引用すべし」とか、「ANTが全く言及されてなくて問題有り」なんていう査読が返ってくる。
近代科学は、社会の現象を細かく分類し、分類することで分析対象を狭め、その囲われた空間を詳細に理解することで発展してきた。物理の世界なんかも、前提として「空気がない」とか、「重力がない」ことを想定して、理論を洗練させてきている。それだけ複雑な社会を複雑なものとして捉えることが難しいことがわかっていたからじゃないかなと思うのである。単純化して初めて、重要なコアとなっている構成要素がわかる。
もともと「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、...」とか、輪廻転生とかに慣れ親しんでいる日本人の一人であった自分は、科学というのものは分類する、単純化することで発展したと理解できた時に初めて、科学の面白さに触れた気がした。だからこそ、西洋科学が入ってくる前に科学が日本で進展してこなかったんじゃないかなと思ってる。分けるんじゃなくて、関連性とか永遠性とかを大切にしてきた社会だから。
大学で科学のやり方は分類することであると教えられてきたのに、それを今更、関連性に注目しましょうと言われても、困るなというのが正直なところだ。単純明快な部分に惹かれて科学の世界に入ったはずが、どうやら様相が変わってきていて悩ましい。デザインの分野に入ってきたのも、周りのCSCW研究者がSTS研究者になっていって、ちょっと違うなと感じていたからでもある。
でも、ラトゥールは、逃げても逃げても追いかけてきた。今でもラトゥールは逃げたい対象ではあるけれども、今回、今まで10年近く逃げてきたラトゥールに向き合わざるを得ない状況になり、改めていろいろと文献を読んでいて示唆を得たことがあった。特に、アクタント様面白いです!サービスと言ったようなコトのデザインだけでなくて、モノのデザインも一緒くたに考えること、それを説明できるのであれば、180度転向して、ラトゥール信奉者になってもいいかなと思ったのである。
情報デザインやデザイン思考が代表する近年のデザインの潮流では、モノではなくコトのデザインが重要であるとされてきました。それはモノのデザインしか意識されてこなかった状況を変革する大変示唆に富んだ発想です。しかし、タッチポイントとしてのモノのクオリティも、それをネットワーク構成の一要素として考えれば、全体のネットワークの凝集力に多大に影響を与える重要なアクタントのひとつだといえます。(アクタントのホームページより)