北欧生活研究所

北欧在住11年。北欧の生活・子育て・人間関係,デザイン諸々について考えています.

私は、生き残れるか?

f:id:jensens:20170304022922j:imageデンマークのDRという日本のNHKのようなチャンネルで、2ヶ月ぐらいかけて、Alene i vildmarken(荒野に一人っきり:超訳)という番組をやっていた。一種のリアリティチャンネルなんだけれども、設定がデンマークらしい。北ノルウェーの川べりに、お互いに見えないぐらいの間隔(15キロぐらいだったかな)で十人のチャレンジャーが送られ、一人で自給自足の生活をする。自然豊かなノルウェーの自然の中(冬も間近)でのサバイバル生活。

食事は持参することはなく、自分で獲得しなくてはならない。鹿もいるのだがどうやら狩りをしてはいけないルールで、川に生息する小魚と採集(ブルーベリーが主)で腹を満たす(満たせない…(。-_-。)。持っていけるものも限られているが、サバイバル道具をリュックサックいっぱいに持参でき、ナイフやら寝袋やら、最低限のものは一応持参する。

(この先ネタバレです)

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(社会)民主主義的グループワーク

f:id:jensens:20170222054748j:image今期も受け持つことになった「企業とのコンセプト開発」と名付けられた授業は、半分レクチャー、半分企業が出した課題解決を進めるグループワークで構成されている。
本日は、グループワークの進捗報告第一回目だった。
各グループと30分ほどのミーティング時間を持つが、全11グループあり半数でも結構骨が折れる。まだ授業は始まったばかりということもあり、際立った問題は、まだ出てきているわけではないが、霧の中を手探りで歩き回る状態の学生からは、不安の声がちらほら聞こえる。これは、昨年と変わらない光景だ。
今回のグループの中にひときわ特徴的なグループがあり、非常に面白かったことがある。グループ運営をどうしたいか、まず話し合ってもらったのだが、このグループだけだいぶ変化球で返してきた。
グループワークは、まぁ大抵4ヶ月の一学期間の間に、衝突が見られる。見られないほうが不思議なぐらいだ。フリーライダーや、遅刻常習犯、提出がいつも遅れる人もいるし、アウトプットの質や方向性がまとまらないこともある。グループワークなので、連帯責任で、この辺りはデンマークらしくない折り合いのつけ方に思えていた。
授業では、グループワークの役割(いろんな人がいろんな定義を出している)をそれぞれに自己分析してもらい、その役割をチームの中で果たすようにと言っているのだが…、このチームはこのカテゴリ分けを拒否して、自分たちは、デンマークの民主主義的方法で進めたいと言ってきた。役割分担をするのではなく、平等にタスクを割り振る。リーダーを決めずに皆がリーダーになる…。オルフェウス(NYの交響楽団で、指揮者がいない)みたいですね、と言ったら、まんざらじゃない表情だった。
デンマークの教育方法や社会の仕組みは、北欧独特なものが多々ある。ただ、大学に入ると、その独自性がなくなっていくように思う。海外のよくできた理論を造作無く取り入れ、使いこなすデンマーク人のスキルは大したものだが、理論化されてなくても、肌感覚にあっている方法というのがある気がする。理論化しないと使えないのはわかるのだが…、よりフィットする方法があるにもかかわらず、デンマークの大学で海外の理論ばかり教え込むのはもったいない気がしていた。北欧由来の参加型のデザイン手法も一見とっつきにくい、わかりにくい部分が多いからか、昨今デザインシンキングに押され気味だ。
「自分たちには、馴染んだデンマークのやり方がフィットするように思う」と言ってきた学生グループの3ヶ月後のアウトプットに乞うご期待だ。

カロリンスカがすごい

f:id:jensens:20170214194340j:imageスウェーデン-ストックホルムにあるカロリンスカ研究所(Karolinska Institute)は1810年設立の国立医科大学で、医学系の単科教育大学としては世界最大と言われる。こちらが教育機関である一方で、ストックホルムエリアの自治体の公立病院として、カロリンスカ病院(Karolinska Hospital)がある。この二つの組織は協力関係にあり、物理的にも関係性もとても近い関係を維持している。一つの通りを隔てて、片方に大学とインキュベーションセンター、大学の研究棟、もう片方に病院と病院側の研究棟が並ぶ。大学の研究棟と病院の研究棟は、遊歩道で繋がれていて、その二つの組織の強いつながりを示していると言えるだろう。周囲には、医療品、医療機器のメーカのビルが立ち並び、スタートアップのビジネスセンターも徒歩圏内にある。それが、カロリンスカのエコシステムだ。このエコシステムには、とても感銘を受けたが、最近の注目はなんといっても新カロリンスカ病院だ。

新カロリンスカ病院は2001年ごろに計画され、2018年に完成することになっているが、一部がすでに建設事務所から病院側に譲渡され、利用が始まっている。この新病院、構想を聞いた当時から注目していた。予算規模もさることながら、病院運営の思想が斬新なのだ。以前訪問したのは、新病院建設中の15年秋だったから、あまり具体的なことは聞けなかったものの、今回の訪問は多くの点で目から鱗の話がたくさん聞けた。

新カロリンスカ病院で最も注目されるのが「patient first」の思想で、その徹底度には、ほんと感心させられる。例えば、がんなどで治療に来る患者のことを考えてみよう。患者ケアの一環として、家族のケアが柱の一つとなっている。個室(全部屋個室)には、家族用のベッドもデフォルトで設置され、家族がいるのが普通の姿として描かれる。(ガンなどのような)大きな病気の場合は、本人ばかりでなく家族の関与が非常に重要になる。それが患者の回復を支えるのだ、といったような考え方とでも言おうか。治療チームが集まり治療前のブリーフィングが行われるが、そのブリーフィングは、患者と家族を囲んで患者自身の病室で実施される、これも斬新だ。近年ようやくチーム医療が注目されるようになってきている日本の状況の一歩先を行っていることは間違いないだろう。

他にも色々と注目したいことはあるのだけれど、中でも、長期的なパートナーシップに基づいたイノベーションを進めていこうとしている点は、特に興味深い。例えば、建設を請け負ったスコンスカは、構想、デザイン段階にも大きく関わり、入札したのちは、建設と同時に25年のメンテナンス契約を結んでいる(これが条件だった)。つまり、スコンスカは、この枠組みで病院建築を進めることで、巨大病院を建てて終わりという通常の建設業の論理は使えなくなった。たとえ建設費に反映されることになったとしても、長期的な視点で資材を選んだりメンテナンスがしやすいようなデザインにすることが必要になる。このようにサステナビリティを考慮することが、長期的には費用削減につながり、関係性向上が達成できる。

新カロリンスカ大学病院側のスタンスも徹底していて、「製品を売りに来る企業に、もはや関心はない」と明言している。今あるものではなく、また、どこにでも使える汎用的なものではなく、新しい医療のスタンダードを創っていくという気概のあるパートナーを求めるという姿勢だ。今後の医療に必要なものは今の姿ではないという認識があり、未来の医療を形作ろうとする気概、そんな強い意志がカロリンスカ全体に広がっている。

関連各所が一緒に模索しながら創り、その創ったもので場を変え、プロセスを変え、人を変えていく。そしてまた新しい形を共にデザインしていく。まさに、一方的なデザインの押し付けではなく、相互の関係で構築されるデザインを追求する北欧デザインの本質を示しているなぁ、と病院建築を見て考えさせられた。

女子だけのシークレットゲーム

f:id:jensens:20170210022238j:image娘(8)の行く学校のギュリュ先生より、2年生のクラス女子のみに向けた連絡が来た。「この金曜日から、イースターまでの約1.5ヶ月の間、クラスの女子だけを集めて、授業後の学童の時間にかけて、特別なゲームをやります。」そんな言葉で始まったメールには、「この新しいゲームは、皆で協力するゲームです。一人がルールを全部決めるのではありません。」などと書かれていた。ゲームの間には、「お話」もするとのことで、その話の内容は、「良い友達とは。お互いに尊重し合うには、どのような態度を示せばいいか。議論になるのはどのような時か。どのようなことを努力し、どのようなことに取り組む必要があるか。」などが例として挙げられていた。

シークレットミッションか?とメールの最初数行を読んだ時に、ドキドキしたのだけれども、なんだそういうことか、と合点がいった。

いつの時代にも、今でも30年前の私が娘ぐらいの年代だった時も、女子グループにつきまとう課題がある。多かれ少なかれ皆、意図的にせよ無意識のうちでも、被害者であったり加害者になったり経験するのだろう。
今までにも、娘の幼稚園や学校には「友達を誕生会に呼ぶ時には、女子全員もしくは男子全員、あるいはクラス全員を呼ぶ」というルールがあったり、「先生が指定する友達グループ」が学年の初めに発表されて、そのグループで、一緒に遊ぶことが奨励されたりしていた。クラス全員は20人弱ほどだけれども、女子だけでも呼ぶのはかなりの負担で、そこまでするんだったら呼ぶのやめるか、というケースにもなりがちだ。そのようなルールをとり決める背後にあるギトギトした理由はわかるのものの、何もそこまで、と思ったりもしていた。だって、成人になっても、気が合わない人とは職場では一緒でも、誕生日などプライベートを一緒に過ごすなどあり得ないから。それは強制されるものではないし。

正直、大人になっても同じような「ハブ」られる、「ハブ」るケースは、多々発生する。場所がどこであろうといつの時代でもつきまとう課題だからこそ、子供時代だけでなく大人になってからも同じような事象は無くならないからこそ、子供達には自分たちで考えて自分なりの解決策を探して欲しいし、大人が介入することで考える機会を損失したり、不必要な干渉とならないようにする必要があるんじゃないかなと思っている。

個人的な思い出話をするならば、私も小学校1年生の時に3人組で苦労した覚えがあって、その時の痛みや悲しみは今でもよく覚えているし、逆の立場になったことも恥ずかしながら多々ある。けれども、親が干渉することは(時々はあったけれども)基本なかったと思うし、今思い返すと、時とともに自分で解決していったり、折り合いをつけたり、自分なりの対処方法を学んだのは良いことだった。失敗は、痛みが小さく済むうちに沢山しておけって奴だ。

しばらく、そんな女子グループからは遠ざかっていた私が、驚いたことについ最近も似たようなことを経験した。40も間近になって。「友達だから」と誘われた夕食会で、気の置けない友人だからしたはずの遠慮ない数週間前の発言を引っ張り出して笑いながら、2人で私の「人間性」を罵倒してきたのだ。多勢だから強くなる人もいるし、自分たちの常識に外れるといって「人間以下だよね」と平気で面前で言ってくる人もいる。今でもその時のきっかけとなった発言を後悔してはいないけれども、「友達」という甘言に惑わされ、違う世界の人たちに通常は見せない面をさらけて、全開もいいとこシールドなんて全く張ってなかった私は、久しぶりに立ち直るのにしばらく時間がかかった。
こんな話をするのは、感傷に浸りたいわけではないし、愚痴りたいわけでもない。残念ながら、女子グループには無意識か意識的か、自分グループの常識に合わない人を排除するそんな側面がある。大人になっても変わらない。そういうものだということだ。だから子供のうちに自分なりの解決策を見つけ出したほうがいい。
強制的にルールを決めてもなくならないこともある。だからこそ、強制しても無理だからこそ、話し合いの機会を持ったり、互いが違う意見を持っていることを認識しあったり、考えさせるということは、やめてはいけないことだ。そんな簡単に思えるけれども実は難しいことに取り組んでいる学校に、なんだか心打たれた。不満もない訳じゃないけれども、そんな努力をし続けようとする今の環境は、非常に健全な場所だと認めざるを得ない。

デンマークは汚かった?!

デンマークで子育てを始めた時、子供の体脂は産んでからしばらくそのままにしておく(軽く拭いたりはするけど)とか、乳幼児でも風呂は週に一回以上は入れるべきではないとか、日本との常識の違いに大いに驚いた記憶がある。その時は、風呂に子供が毎日入らないのは、乾燥している地域であり、汗もそれほどかかないし、(多分)皮膚も汚れないから、毎日風呂に入るのは逆によくない、身体の新陳代謝に沿うべきだという説明に、ふむ、そうなのかもしれないな、と思わされていた。

昨年末にたまたま本屋でブラブラしていたときに見つけた「図説 不潔の歴史をようやく読了したのだけれども、今はデンマークの常識にまったく違う理解を持つようになった。つまり、ぶっちゃけ欧州人(書籍では米国との比較で主にフランス、イタリア、英国など西ヨーロッパが描かれているが、北欧も似たようなものだろうと推察される)の衛生感覚や水に対する認識は発展途上であるということだ。

図説 不潔の歴史には、水が嫌悪されていたことや信心深い人ほど身体の衛生に無関心であるべきと考えられていたことなどが描かれそれだけでも驚きの連続であるが、キリスト教の歴史や史実が現在の欧州人の生活にいかに繋がっているか、改めて考えさせられた。水の代わりにワインを飲むとか、ワインで体を洗うとか、欧州人の(昔の)習慣は理解に苦しんでいたのだけれども、そんな宗教の授業で見聞きしたことや毎日の生活で疑問に感じていたことで、ようやく腑に落ちたことが多々あった。フランスの油脂が含まれるボディスクラブやオイルで体を洗う習慣なども、きっと皮脂をとりすぎないようにと考えているんだろうと、勝手に解釈していたけれども、今では、これもおそらく古き習慣(汗腺を塞ぐのが良い)から来ているように思える。

子供の学校(デンマークの私立学校)には、週に一度体育の時間がある。そのときに子供達はたいして汗もかいてないだろうけれども全員でシャワーを浴びる。この習慣に関しては、子供のうちは男女が互いの裸を見るべきだとか、理解不能の説明をデンマーク人からもらっていたのだけれども、図説 不潔の歴史によると、このセッションが導入された1920年代は、衛生感覚(病気予防につながる)を学習させるのに両親(水に関して嫌悪感や恐怖を抱いている)を説のではなく、子供から始める(風呂の習慣をつけさせる)という政治的戦略だったということだ。

フィンランドには、古くからサウナ(汗をかいて皮脂の汚れを落とす)の歴史があるし、出産などもサウナで行われていた(西欧州より衛生的な処置に思える)などと聞く。おそらく、欧州とひとくくりにしてはいけない様々な違いが欧州エリアにもあるだろう。また、日本や米国は、衛生的であることにこだわりすぎ、弊害が生まれているともいうから、洗えばいい、衛生的にすればいいというわけではないことは確かだけれども。

口頭試問、再び

f:id:jensens:20170211174554j:image9月に始まったデンマークの大学の冬学期は、12月末から1月中旬まで続いていたテスト週間を経て終了した。来週からは春学期が始まる。いつも以上に晴れ晴れとした気持ちで春学期を迎えることができるのは、この冬学期の「個人プロジェクト; IT for Parenting」で受け持っていた数人の学生のうち、とてもよくやってくれた一人の学生がデンマークの成績評価の最高点12ポイントを取得することができたからということが一つ大きい。

成績評価はレポートと口頭試問で、定性プロセスが多いプロジェクトで私がよく採用するスタイルだ。口頭試問に関しては、今までにも苦渋の経験がある。授業を受け持つ教師だけでなく、外部の評価者と二人で評価をするので、14週間頑張っていた学生が低評価で、適当に課題をこなしていた学生がより良い成績になったりすることもある(以前に執筆したデンマークでの口頭試問の受け方参照)。デンマークでは、出席率での評価や授業中の課題での評価はしてはいけないことになっており、ほぼ全てが最後の一発勝負になる。事前に指定された評価項目(中間発表への出席とか)もあるにはあるけれども。

今回のケースでは、一人の学生は、お願いした外部評価者(センサー)からも12ポイントの最高評価となり、口頭試問の最後にポイントを提示した時の「信じられない!!」という学生の顔が忘れられない。

前回の後悔を繰り返すまいと、今回、センサーに対して戦略的にやったこと、学んだことがある。

  1. 事前にセンサーとの関係をメールベースででも築いておく。
  2. 当日、プロジェクトの目的とタスクについて説明を怠らない。
  3. 自分の学生のレポートに対する評価を、明確に述べておく

今回のセンサーは、私の評価もきちんと聞いてくれる人で、初めは10と言っていたところ、「確かにプロジェクトの目的と、単位数と、時間を加味すると、このアウトプットが出せるならば、12をあげても良い」に変わった。レポートがなぜその評価なのかということをきちんと教師側が議論する必要があるというのは不思議な気もするが、定量的に測ることができるマークシートなどの評価とは、違う論理が必要になってくるということもわからなくもない。

ちなみに、デンマークの成績評価は、7グレードあり、スコアは最高が12で、"素晴らしい。あったとしてもマイナーな問題のみ"という評価。その次は10, 7, 4, 02と続く。それより下の評価は、グレード00, -3で、落第点だ。デンマークらしからぬと思うのだけれども、この評価は、欠点探しの評価とも言え、全ての学生は"12"ポイントという素晴らしい学習の結果を見せるという前提のもと、できない点を差し引いていくという形をとる。

ちなみに、デンマークで元から取られている評価基準を世界標準の成績評価(A, B, C, .... D, E)に合わせるために、不可思議なポイント00, -3などが出てきているということだ。

 

継承語と多言語多文化教育

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(写真: デンマーク図書館。図書館は学習する場所、身体性を生かした学習も含まれる)

どうやら日本語を「継承語(Heritage Language)として学ばせる」という動きが、世界各地に住む日本人の中で見られるようになっているらしい(正確には日本人だけではなくてカナダや米国など筆頭に多言語多文化環境の様々なところで見られている)。夏にデンマークに来てくれた茜ちゃんが米国で継承語クラスを実践し、フランスに住む中高の友人が時折呟いていて、最近、気になっていた。

この継承語、「親から受け継いだ言葉」が一般的な定義となっているようだが、日本語を、自己のルーツを継承することを目的とした言葉として学ばせることとでも言えるだろうか。例えば外国に長期滞在/永住する日本人(よくあるのがパートナーが外国人)が、自分の子供(よくあるパターンがハーフの子)に日本語を学ばせたいとする。今までは、多くの人が子息を日本人補習学校などに行かせていただろう。ただ、これにはいくつかの課題がある。

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