北欧生活研究所

2005年より北欧在住。北欧の生活・子育て・人間関係,デザイン諸々について考えています.

未来の図書館の姿?!

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デンマーク第二の都市オーフスにDOKK1と呼ばれる複合施設が出来た。海岸沿いの冬は海風で大変寒い風光明媚な場所に、美しい近代建築がそびえ立っている。この景観素晴らしい立地に建てられたのは、オーフス市の市民サービスセンターや図書館、イノベーションセンターが同居する複合施設だ。
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市民サービスセンターは、パスポートを取ったり、各種住民手続きなんかでお世話になるいわゆる市役所みたいな場所なんだけれど、建物に入るとまず見えるのが市民サービスセンターの受付。あちこちに備え付けられているディスプレイには、建物案内やら待ち時間表示なんかが掲示されている。まず目につくのは受付ディスク上のライトだろか。キラキラ輝き、デザイン王国デンマークの名に恥じない最高に凝っているプレゼンス。一見、オペラハウスやミュージックホールに来たような錯覚を覚えるほど美しい。でもココは、区役所。
 
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隣接するおしゃれなカフェの裏脇にあるのは公共図書館の図書返却機だ。正面はナンテコトナイが、側面はガラス張りになっていて返却した図書が図書館へベルトコンベアで運ばれていく様子が見られる。この図書館は、市民サービスセンターからシームレスに陸続きで存在する。その間に扉も壁もない。気がつくと図書館エリアにいるデザインだ。
 
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少し回って入っていくと急に視界が開けて、吹き抜けの二階エリアに繋がるスロープが広がっていた。この新しいオーフスので図書館、人気があるとは聞いていたものの、まさかこんなファンシーなデザイン王国デンマークの威信をかけて作りました的な建物に出会えるとは想像だにしなかった。
 

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なんせ、メイカースペースはあるわ、ボードゲームスペースはあるわ、イノベーションルームはあるわ…。
 
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子供図書エリアもまるでプレイランド。おそらく映画上映会なんかもやるんだろうと思われる階段型の読書エリアでは、子供が走り回り、大人が階段で雑談している。この子供エリアには、もちろん図書もあるんだけれど、工作スペース、展示スペース、ピンポン台に、アーケードゲーム機まである。
 
このオーフスが誇る図書館は、ミライの図書館として考えられる機能がふんだんに盛り込まれている。そもそも、多くのデンマークの図書館は、利用者が減少し、また今の社会に必要な新しい図書館の姿を模索している段階だ。一つの方向性として、社会弱者を支援する場所という視点が近年提示されているけれども、私は、それだけでいいんだろうかと常々思っていた。もっと違う知の集積所の役割があるんじゃないかと思うからだ。それは、もしかしたら、メイカーズ・スペースなのかもしれないし、読書という視覚だけでなく、触覚や味覚やその他の感覚を活用できる学びの空間なのかもしれない。
 
だからこそ、このオーフス図書館は、先端的な未来の図書館を模索する姿として注目していた。ただ、実際に来てみたら、想像通り⒌感を活用できる場が提供されているんだけれども、あまりのカラフルさに目眩がしてしまった。なんというか実際にその場にきてみたら、意欲溢れるデザイナがトップダウンで、新しい図書館にはこんな機能が必要だよねと議論した結果、出てきた全てを詰め込んだ大人のおもちゃ箱みたいだという印象が拭えなかったからだ。
 
この図書館が作られた時、図書館を愛する人たちは、どのような図書館の未来を描いていたんだろう。それとも図書館には今まで全く関係していなかった人たちが主導したんだろうか。
 
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この図書館は、大人の知的好奇心を刺激するレクチャーが頻繁に開催され、かつ、目的はともあれ、乳児から学童期まで、幅広い子供が集まる場所になってる。つまり、集客には成功しているわけだ。高負担の税金の再分配の結果作られた場所、オーフスの図書館。住民が無料で使えるキラキラ輝く公共のアソビ場が、ここにはある。
 
オーフスには、他にもキラキラ施設がたくさんある。近代美術館ARoSなんかも素敵な建物だ。この話はまた別の機会に。
 
 
 
 

コーディネーションメカニズム

f:id:jensens:20160215214504j:image同僚のデンマーク人研究者は、大学の代表として地域の高校(デンマークの高校は基本的に公立)の執行役員(ボードメンバー)を務めている。これは、新興開発地区である大学の立地にも大きく関係しているのだろうが、地域に高校が新設されることに決まった時、IT大学から1人執行役員につくことが取り決められ、それ以降継続してポストが設けられ、大学の教員から選出されている。現在は2代目だ。

興味深いのは、こんな風にして地域で実施される中等教育に大学の知見がうまく活用されるための枠組みが整えられているということだ。よく、大学教育において、社会や企業ののニーズが酌み取られてないという批判がされ、学生の就職状況などが、デンマークの大学の人気ランクやひいては運営資金を左右する。だからこそ大学は、就職状況を気にするし、大学の執行役員には、産業連盟の重鎮が名前を載せてたりする。

今回知ったのは、高校レベルでも同じようなことが行われているということ。ITUは、デンマークでも珍しい新しい(99年)創立の、社会におけるIT活用に特化した研究を中心とする大学で、新しい組織だからこそスムーズにできる取り組みが数多く行われているように見える。地域の新設高校も新しい教育方法を取り入れていて、目指すところが似通っているということもある。ちなみに、この高校の新しい教育の取り組みについては、非常に面白いので、また別の機会に記録したい。

デンマーク社会の特徴として、組織縦断の連携を促進する努力が見られる。そして、それがうまく活用されている例を、電子政府の進展や大規模病院建築など、今まで多々見てきた。それだけでも興味深く思っていたけれど、うまく複雑な社会課題を解決するためには不可欠な多岐にわたるステークホルダーをコーディネートするためのメカニズムが、想像以上に社会の隅々にまで広がっているようなのだ。うーむ。。

ドリームチームの創り方

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現在ITUで受け持っている授業の一つでは、1セメスターかけて、学生チームが新規事業や現在抱えている企業の課題をデザインする。授業の半分はセオリーで、残りの半分はその知見を活用した実践だ。学部学生の授業に、コミットしてくれる企業が多々いるのも非常にありがたいが、それだけ面白いアウトプットが何か出てくるかもしれないと期待しているというのもあるんだろう。将来の顧客かもしれないし、社員になるかもしれないし。企業が出してくるのは、実際に企業戦略のコアとなっている課題からちょっと辺境の課題だけれども興味深い新しいアプローチとしてイノベティブな課題もある。このような産学連携は、デンマークではそれほど珍しくない。

 
このような産官学連携プロジェクト型授業では、学生グループは、授業の一環として、企業や団体と共同でプロダクトやサービスのデザインをするわけだ。今回の授業では、企業へのコンサルタントとして4-5名ほどで構成された学生チームが企業との折衝をすることになる。悩ましいのは、学生チームの構成だ。やはりそれなりのアウトプットが出て欲しいからこそ、友達同士でなぁなぁにやって欲しくないし、非常に頭を悩ませる。さて、チームはどう作っていくのが良いんだろうか?
 
デンマークでは、グループワークは、小学校時代から積極的に活用されている。その頃の話を聞くと、先生が無作為にグループを構成するので、フリーライダーがいたり、どうしようもない学生が同じチームになったりすることで、成績が左右されることになるわけで、誰しもがなんらかの嫌な思い出を抱えている。ある人は、「将来仕事をしたっていつも好きな人とできるわけではない、ということを先生に言われて渋々納得した」と言っていたし、別の人は「どうしようもない奴は、皆がチームに入れたがらないから、教師が介入してくる。そんな平等主義はやめるべきだ」と声を荒げて言っていた。
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以前DTU(デンマーク工科大学)で関わっていた180名ほどが参加するアントレプレナーの授業では、米国発のCatmeというグループ構成システムを使っていた。履修者が、オンラインの質問に答えると、システムが、それぞれの特性などを組み合わせて最適なグループを自動構成するというものだ。学生は第三者の思惑が入っているわけではないので文句の言いようがないし、教師は、最適なチームをアルゴリズムが示しているということで安心できる。ちなみに、このアントレプレナの授業では、過去数年このシステムを使っていて、特に不都合はなかったと聞いているし、そのほかにも生徒同士が互いに評価をするためのシステムPeer Gradeのシステム(Peer Grade)も活用されていて、未来の学習環境を見ている気がした。
 
今回のITUの授業では、この授業が例年採用している方法ー1コマかけて自分たちのドリームチームを構成させるという方法をとった。学生は、事前の準備として、van Stammの5 care profileやBelbinの9つのチームの役割などの資料を元に、自己特性判断を行い、自分の特性を自己審査してくる。例えば、自分は、「ファシリテータ」で「オーガナイザ」であるなどだ。その自分が向いている役割を名札代わりにして、うまく1グループでチームワークに必要だと考えられている特性がカバーできるように、他のクラスメイトとマッチングしていく。
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はっきり言って、この授業中にチーム作りをさせる方法は、心理学的な要素が大きく関わり、私は当初、納得いかなかった。どうしても、自分プレゼンが得意な人たちに軍配が上がるからだ。「一緒にプロジェクトをやろう!」と積極的に動けるいわゆるアウトゴーイングなタイプの学生が、早々と類友オトモダチ同士でチームを構成していた。我々教師側が、特性がカバー出来ているか、最適なチームになっているか、もう一度、今のグループと別れて、新しい人と話して!と言っても、結局オトモダチからは離れない。少々消極的な学生たちは、ちょっとあぶれちゃったり、あぶれ者同士で、チームを組むことになったり...。多くのグループが同じような特質の学生で構成されているのを見ると、もっと良い方法があるんじゃないかと考えさせられるわけだ。そんなデンマークの20代前半の学生たちを見ていて、自分の小学生の時の苦しい思い出が甦ったりした。
 
DTUの授業では、さすがに180名もいるので、自動化しないことにはグループ構成だけで何日もかかってしまう。だからこそ、そもそもチーム構築システムCatmeを使うのは、最適な方法であると疑いの余地がなかった。今回は、60名ほどの学生数で、自分の役割を自己判断させそれに基づきチーム構成をするという制約があったとはいえ、バランスの良いチームが作れているようには見えなかった。かなりの部分で自由裁量だったため、どうしても偏っている印象が拭えない。だからこそ、一コマ終了した後、システム導入をしたほうがいいのではないかと、その日一日中考えさせられていた。
 
だが、考えていて、ふと思い直した。実際にスタートアップなどをする時、ドリームチームを作る時に必要なことはなんだろう?それはおそらく、ケミストリーが合うかどうかなんじゃないだろうか。デンマークで成功している「ミッケラー、イヤマのインタビューから感じ取れること」でインタビューした時も、ベストパートナーの重要性(つまり自分が一緒にビジネスをやれる人)が強調されていたし、多くの成功しているスタートアップも気があう仲間とビジネスを始めている。チームに足りない要素をカバーする人材が加わるのは後からでもよく、何よりも重要なのは、運命を共にできるパートナーを探すこと。もしかしたら、やはり学生に任せてもいいのかも...。
 
DTUの授業では、全く知らない人たちがチームを組むことがほとんどだから、お互いを知るまでに時間がかかるし、衝突はプログラム実施中、日常茶飯事とも言えた。ただ、それを乗り越えて、素晴らしいビジネスモデルを提案するグループを見てきた。システムは日々最適化が図られているからこそ、個人では発見されてなくてもポテンシャルが最高のチームが作られているんだろうなと思っている。
 
今後、本能的な第六感で作られるグループ構成がシステムに勝るか....、もう少し様子を見てみたいと思う。
 
Belbinのチームの役割分析に関しては、オンラインでも診断できるようになっていて、自分がチームでどのような役割に向いているのかちょっと試してみても面白いかもしれない。
 
 
 

オープントーク

f:id:jensens:20160212054941j:imageMr. Darcyは、自分の身内に起こった不幸な出来事を公にしないことで家族の名誉を守ろうとしていたけれど、そのMr Whickhamの悪事を他の人が知る機会を作らなかったがために、結局同じような出来事が主人公の妹に降りかかることになってしまった。

最近、イギリス文学の古典Pride and Prejudiceのある1シーンをことあるごとに思い出す。被害を受けた人たちが、声を出していたら起こりえなかった悲劇は、あらゆる状況で起こりうる。Pride and Prejudiceで話されているほど重大なことではないけれども、同じようなことが以前我が身にも降り注いだ。そのことは、前にも多くの人に話したし(デンマークのインター幼稚園)、その時も今でも、その馬鹿話をするのは非常に自分でも情けないのだけれども、同じ悲劇を繰り返さないためにも、時には記録に留めておくのは重要なことなんだろうと思うことにしている。 

つい最近、その園で仲良くしていたオランダ人夫婦と話しているときに(親同士は園を離れても仲が良い)、その噂の幼稚園(Children's Garden International Preschool Copenhagen Denmark)のMs. Tina先生が園を離れていたことを知った。私たちは、彼女の教育者としての腕にとても尊敬を覚えていたからこそ、退園を一時は考え直し、退園後は彼女の指導を受けられないことが一番悲しいと思っていた。だけれども、これで、あの園に思い残すことは何一つなくなった。

なぜ、私はその幼稚園に愛する息子を通わせたのか、さらにMs. Tinaもその幼稚園で働こうと思ったのだろうか。私は、その園に通っていた2人の日本人にその園の評判を聞いて、前もってとても良い園らしいという情報を得ていた。でも、今から考えると、彼らには"自分の子供が入っている園を悪く言いたくない"という気持ちが強く働いたんじゃないかと思っている。もしくは担任の先生がとても良かったので、それでよしとしていたか。私の知るその2人は、どう考えてもあの運営者に納得するには、教育に関して真剣に考えている類だったし、英国の教育に関して知見がないとは思えないからだ。もし、私がその人たちに「子供を通わせたいと思うからどんな園か聞きたい」、と問い合わせたらまた返事も違っていたかもしれないと思う。

私たちは、自分の所属している組織のことをできるだけ悪く言いたくないと考える傾向にあるんじゃないだろうか。さらに、知られたくないことには口を噤む傾向にもあるかもしれない。これは個人にとっても社会全体にとっても大きな損失だ。

お別れの作法

f:id:jensens:20160207194711j:image土曜日の明け方、夜明け前、4時間車を走らせて、デンマークの最西ユトランド半島のStruerに向かった。友人の父親のお葬式に参列するためだ。正確には旦那の幼馴染のお父さん。以前、迷った末祖母のお葬式に駆けつけず、あとから後悔した思い出があるので、迷っているなら行こうと旦那を促し、前日にユトランド半島への小旅行を決めた。


人生イベントに関わる社会行為にはたくさんのコードが埋め込まれている。お葬式はその最たるものだろう。誰も説明しないけれど、ルールを皆が知っていて、決められた筋書き通りに淡々と物語が進んでいく。異なる社会文化から来たものにとっては、不可思議なことだらけだ。
 
半旗を掲げた教会に入ると、玄関口に親族のいわゆる喪主が立っている。ここでは、他界された方の息子と2人の娘が並び、お悔やみを述べる客たちと挨拶を交わしていた。参列者は、教会に入り、他の近親者(妻、夫や子供達)に挨拶して、着席して式が始まるのを待つのだ。話すときにはヒソヒソ話、子供も雰囲気を感じてか、ヒソヒソと話しかけてくる。席次に関しては、大抵、左前方には、近親者が並ぶことになっているようだが、あとは比較的自由。かつては、身分や社会慣習で並び方が決まってたんだろうけれども、この国にはその片鱗もみられない。雰囲気を最も変えるのは、通路中央にに並べられている献花だろう。その脇を通って、参列者は席に着く。
 
式自体は一般的なデンマークキリスト教の歌ミサと大して変わらなかった。ところどころで歌を歌い、合間にミサや説教が入る、あの一般的な形だ。お葬式ということで荘厳なイメージは付加されていたとはいえ、デンマークプロテスタントのミサ自体が、カトリックのミサとは大きく異なっていて、まさに民のために整えられた社会行為なんだろうなという印象は薄れない。おそらく権威を象徴し荘厳に全てのプロセスを進めるカトリックと、清貧を重んじより民に近い方法を考えながら教えの伝播を志向していたシンプルかつプラクティカルなプロテスタント式の違いなんだろう。いずれにせよカトリックプロテスタントもおおよそのコードが分かっていれば、恥ずかしくない程度に流れに乗って式に参列できる。つまり、壁には「本日の歌」が番号で明示されているし、ご起立くださいという合図で皆が立ち上がり、お座りくださいで座席に再び着席する。式で唱えられる祈りも主の祈りなどの典型的なものだ。
 
今回も非常に典型的な式次第だった。開始の挨拶、牧師の悼辞、説教、閉式の辞。間に4曲ほどの関連する歌が歌われた。最後は、身内が棺を両脇から持ち上げ、中央通路を通って外に出る。この時は、子供も孫も…皆でお見送りだ。献花の上を柩が通るその様子がもっともプロテスタントの式で荘厳な瞬間に思える。献花の上を通るのは、その日の主人公だけ。その後ろから、献花の両脇を参列者が続き、教会から出ることになる。その後、教会のすぐ脇の敷地内に横付けされた霊柩車(特別仕様の、外からも棺が見えるベンツのワゴン車だった)に棺が入れられ、火葬場に向かう車を皆で見送った。
 
その後、通常故人を偲ぶお茶会が、教会に併設されている集会所で実施されるが、その名の通り、お茶とコーヒーとケーキやクッキーが供される。故人を偲ぶスピーチが繰り広げられる以外は、一見、普通のお茶会だ。いや、年齢層も様々なので、やはり少々違和感があるお茶会なんだろう。デンマークのイベントごとではもちろんスピーチは欠かせないが、こういった時間は、故人との楽しい思い出の共有の時間だ。こうやって、皆で集まって1人の物語を編み込んでいくプロセスは、デンマークらしいと思う。
 
初めてデンマークでお葬式に参列した時、驚いたことはいくつもある。例えば、故人への最後の御目通りはないということ(教会内の祭壇前に棺が置かれ参列客は最後のお別れをする機会はない。運び去られるときに棺は見ることはできてもお顔を拝見する機会はない)、火葬場まで一緒に行かないという点だ(誰も家族はみないんだろうか?)。かつては違ったのかもしれない。土葬の頃は、実際に埋めるところまで同席したんだろうし、式の間、棺の蓋が空いている場合もあると聞く。今でもそのように棺をあけていたり、土葬をするところまで付き添っていくエリアもあるのかもしれない。
 
静かに荘厳に美しく…の葬式もきれいだが、時折故人を思い起こしながらもどんちゃん騒ぎの飲み会や、ちょっとした愚痴やバカな思い出話しが出てきて、打ち上げ花火のように人生を締めてもいいな、と思うのである。デンマークのお別れの仕方は、私にとっては、社会的にも、区切りをつけるためにも重要だと思っていたことがことごとく実施されない、驚愕のお葬式なのである。
 

ユーザ参加がいつもうまくいくわけではないという事実

f:id:jensens:20160204022626j:image北欧の参加型デザインやCoDesignの話をすると、「いゃ〜そんなの日本では無理ですよ」という反応を示されることがある。立場や目的の違う人たちが集まって解決策を考えるという枠組みに、日本のしがらみやら、上司と部下の関係やらが頭に浮かんでしまうのだろう。
北欧での実践報告を聞いたり、各種レポートを見ているだけでは、当たり前のように参加型が取り入れられて、ユーザのエンパワーなんかもうまく進められている印象を持ちがちだ。でもその実践を身近で見ていたり、関わっていたりすると、そんな美しいものじゃなくて、もっと現場は泥臭いものだったりするのが現実だということがわかる。
ユーザ参加と言っても、ユーザが集まらなかったり、集まった人たちがあまり乗り気じゃなかったりすることもよくあるし、プロジェクトでリソースがつくから運営されているだけでプロジェクトが終わると消えて跡形もなくなくなってしまうなんてこともよくある。ユーザのエンパワーと言いつつも、主導しているのはデザイン研究者であることが多く、ユーザは誰もそんなの要求したわけじゃない、という状況だったりもする。報告や論文で参加者が抵抗している様子などが書かれていることがよくあるが、そもそもなんでやったんだろう?結局デザイン研究者の独りよがりじゃないんだろうか、と思わされることも度々ある。

おそらくユーザは、参加してみて初めて、自分で自分の生活に関わることをデザインをする楽しさみたいなものを理解することもあるんだろう。だからこそ、参加型を社会の隅々に取り入れていくのは啓蒙と同じで、社会が自律的にデザインを取り込んでいくためには必要なことなんだろう。
ただ、そのあたりの仕組みづくりを苦労して進めているのがデザイン研究者であって、全てが夢の世界のように仲良く手を取り合って進んでいるわけではないことは、よく理解しておかないといけない。

ウプサラでは、2度よりマイナス20度が好まれる

f:id:jensens:20160130222537j:image人の価値観や感覚は、時に想像の域を超えることがある。男女でも異なるし、分野が違う人も異なるし、更に日本とスウェーデン文化のような民族的な違いも大きい。

ウプサラは、ストックホルムより北に40分ほど特急電車で行ったところにあるが、今回ウプサラ訪問で一番記憶に残ったのが、ウプサラの人たちが、口を揃えて「こんな天気のときでほんと申し訳ない、残念無念」と言っていたことだ。

どうやら私たちが行く数日前は、-20度前後まで気温が下がり、雪も積もっていたらしい。私たちがストックホルムに到着する1日ほど前に気温が大幅に上がり、ウプサラ訪問時は、5度程と暖かく、霧雨が降っていた。"雨は確かに残念だけれど、マイナスは困るし、ましてや-20度は、ちょっと困る。あぁ、先週でなくてよかった"。と思ってた私としては、いく先々で「先週は本当に、ここらしい天気だったのに」とか「本当にこんな天気で申し訳ない」と言われるたびに、それはスウェーデン式ジョークでしょうか…、と聞きたい誘惑に駆られたわけだ。

何人にも言われたことで、ウプサラの人は本当に「残念」で「申し訳ない」と、"私たちのために"悲しく思っていることがわかり、ここでまた驚嘆させられた。

確かにグレーの天気と景色と、あちこち水浸しの街で、いい時期とは言えないかもしれない。確かに、クリスタルクリアな粉雪や、まるで空気が張り詰めるようなマイナスの大気を感じられるのは、嫌いじゃないし、残念だったとも言えなくもない。
ただ、感覚の違いの深淵を垣間見て、目眩を感じざるをえなかったことも確かだ。