異文化の分かり合えなさは永遠に続くのか
しばらく悩み続けていることがある。親切心であることがわかるから受け入れたいのに、私の心はギョッと反応してしまうことに関してだ。そして、私は自分の心の狭さに驚き、自己嫌悪に落ちるのだ。
ちょっと前に、「ファスト&スロー」という書籍でダニエル・カーネマンというノーベル賞を取った認知心理学者が注目された。この人の理論の一つに、人はシステム1とシステム2思考に基づくというものがある。速い思考であるシステム1は直感や感情のように自動的に発動するもので、日常生活のおおかたの判断を下している。一方、遅い思考のシステム2は熟慮のことで、意識的に努力しないと起動しない。システム1の判断を退けてシステム2を働かすのは、多くの人にとって難しい。
最近考えることというのは、「文化的な要素も、私たちの体には、システム1として埋め込まれるのだろうか」ということだ。
もしあなたが日本人であったり、日本で生まれ育った人だとしたら、次のことをちょっとイメージして見てほしい。
Q. あなたが、恋人から白い菊の花束をプレゼントされたらどう思いますか。
Q. 誰かが白いシャツに黒いネクタイをしてディナーや会合に出てきたらどう思いますか。
最近、私は、とても近しい人から菊の花束をもらった。一瞬ギョッとして表情がこわばったのだろうか、即座に「素敵な花束ありがとう」の反応ができなかった。ニコニコと「これデンマークの季節の花なのよ、すてきでしょ?」と暗に感想(お礼?)を促されて、「あぁ、素敵だね。ありがとう。」というのが精一杯だった。その後1週間ほどダイニングに飾られたその菊の花束を見るたびに私の心は一瞬ギョッとする。
もちろん、デンマーク生活が16年目になる私は知っている。デンマークでは、白菊になんの意味もないこと(花言葉は「真実」らしい)、黄色の菊にもなんの意味もないこと(花言葉は「敗れた恋」)。そして、黒ネクタイは、ファッションコンシャスなデンマーク人のマスト・アイテムにすぎないこと。
16年も住んでそんなことにいちいちギョッとするのをやめようよ、と自分に言いたいが、残念ながら私の体は反応してしまう。そして、理知的な私が出てきて、「デンマークではそれはなんでもないことなんだ」と語りかけてくれる。私は、いつか変わることができるのだろうか?白菊を見て、ギョッとする以前に、理性的に「日本では仏花、でも、デンマークでは秋の花」と考えられるようになるのだろうか。
私の旦那は、知識として白菊が仏花であることを知っていて、理性で判断する。だから、私に白菊の花束をプレゼントをすることはないだろう。だが、私と同じように白菊をみてギョッとすることはないのだと考えると、我々の感覚の間に横たわる大きな壁というか谷間に改めて気づかされる。
デンマークで一時期問題になったムハンマド風刺画問題は、今フランスでも再燃している。欧州の人たちは「表現の自由」を声高に訴える。その気持ちは理性としてはわからなくもないが、異文化の中で生活をしている私は、イスラムの人たちがギョッして息がつまる気持ちの方も痛いほどよくわかるのだ。理性の前に嫌悪がくる。欧州人は、理性的に考えて「表現の自由」を主張するが、人は直感や感情もある。心理的にどうしようもない気持ちが湧き上がるということに、意識が向かないのだろうか。人が嫌だと言っていることを「表現の自由」という言葉であえて表現しようとするその理由が、私にはやはり理解できない。
卑近な例で恐縮だが、私は、旦那から例え愛情たっぷりでも白菊の花束をもらいたくないし(別の花束にしてくれ!)、黒ネクタイをするかっこいいデンマーク男子を前にかなり引いてしまう自分がいる。